ランニング再開、母の死、開業準備と大きく動いた2年間

2009年4月から栃木県の病院に転勤しましたが、その病院は駅から離れた4kmほど場所にありました。非常勤医として週1回勤務していた頃は、他の先生のご厚意に甘えて駅まで車で送って頂いていました。しかし、毎日というのはさすがに申し訳ない。そう思った時に、「片道4kmなら、着替えを背負っても走って往復出来るんじゃないか?」と思い立ちました。

ランニング雑誌などで「通勤ラン」という言葉を目にしたこともあり、私も取り入れてみようと試してみました。

着替えを入れた重い荷物を背負い、自宅から最寄り駅までも走ったので、往復12~13kmを走りました。

大学を卒業してから6年間、あまり走れていない時期が続いたので体力は落ちており、ゆっくり走っていても最初はかなり疲れました。

それでも毎日続けていると、徐々に走れるようになってきました。余力が出来ると、ちょっとペースを上げてみたり、電車の時間を計算して遠回りして多く走ってみたり、通勤しながら負荷の高い練習をして、走力が戻って来るのを実感しました。

業務自体も前の病院時代より軽くなり、毎月のように大きく体調を崩すことはなくなりました。体重は55~57kgくらいで変わりませんでしたが、筋肉がついて脂肪が落ちたためで一時の病的な状態からは脱していました。しかし、胃の不調は続き、食欲にはムラがありました。また、胃の不調と共に時々異様な倦怠感に襲われ、いくら寝ても疲れが取れないと自覚する日も増えていました。

2010年からフルマラソンの大会に参加するようになり、2月の大会では低体温で途中棄権をしましたが5月の大会では2時間57分で走ることが出来ました。しかし、私の兄が遙かに速くフルマラソンを走っていることもあってこの記録には全く満足出来ず、「もっと練習しないとダメだ。こんなタイムでは話しにならない。」と自分を追い込むばかりでした。

中距離(1500m)が中心だった大学時代と比べて、走行距離ははるかに多くなりました。

前の即場よりも業務が軽いと言っても毎週当直はありますし、通常業務の合間を縫って開業準備もしていたので忙しい生活ではありました。

また、この間には大きな出来事がありました。2010年3月に、闘病生活を送っていた母親が亡くなったのです。

実家とは絶縁状態が続きましたが、2010年に入ってからは両親と少し電話で話すことが出来るようになっていました。お互いによそよそしくぎこちない会話で、短時間しか続きませんでしたが、それでも話せるようになったのは大きな進歩でした。

しかし、2010年3月に入ってからは母親が会話を出来ない状態となり、自宅で父親が介護をしている状況だと兄から聞きました。

父親に実家に行って良いか確認して、久々に実家を訪れました。母親は意識が混濁して会話が出来ず、時折うわごとのように言葉を発していました。

「久しぶりに会えたのに、もう2度と話すことは出来ない。自分が反抗して意地を張ったからだ。」と自分を責めました。ずっと滞在していたかったのですが、長時間私と一緒にいることで父親の病状が悪くなるのではないかという不安もありました。普通に会話はしているもののどこか緊張感がありました。長く滞在すれば、せっかく落ち着いている父親が私のせいで悪くなってしまうかもと考えて、1泊だけで自宅に戻りました。

しかし、自宅に戻った夜に兄から電話がありました。「父親から電話があったけど、いよいよ母親が危ないらしい。明日一緒に実家に行こう。」

翌朝、再度実家に向かいました。今度は兄達も一緒なので父親の調子が崩れる心配は少ない、と安心感がありました。

前夜の電話の様子では朝までもたないかも、と感じていましたが、私たちが実家に着く昼過ぎまで母親は生きていました。そして、私たちが到着するのを待っていたかのように息を引き取りました。

結局、関係を完全には修復することなく、親孝行らしいことは出来ませんでした。母親が亡くなる前に俳句を詠んでおり、亡くなってから母親の句集を父親がまとめてくれました。その句を見ると、私と絶縁状態になっても母親が私のことを気にかけてくれていることが痛いほど分かりました。

それなのに私は、母親の気持ちを分からず、ただ反発して、関係を断って、感謝の気持ちを伝えることもなく終わってしまったことを強く後悔しました。かといって何も取り戻すことは出来ません。

母の葬儀が終わると、また日常に戻ります。相変わらず胃の不調は続き、時折異様な倦怠感に襲われ、疲れが取れない日はありますが、開業の準備をして、ランニングも続けて、比較的平穏な日々が続いているかのように感じていました。

しかし、平穏な日々は突如乱れました。

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