母親の病気と実家との距離

研修医1年目の時に、母親がガンを発症しました。

兄からの電話でそれを知った私は、実家に電話をしました。

両親と大げんかして疎遠になったとはいえ、心配をした私は「休みを取って実家に戻るよ。」と電話に出た母親に話しました。

しかし、母親は「いや、忙しいやろうから無理しないで良いよ。」と繰り返すのみです。

確かに忙しい生活ではありますが、職場に事情を話して申請をすれば数日休むことは可能でした。休みは絶対に取れるから、日帰りでも顔を出すと告げる私に、母親はようやく事実を話しました。

「実はお父さんが・・・」

父親は私との電話での口論を機に精神的に不調となり通院をしていること、私の話しをするだけで不安定となり、と会うことにより病状が大きく悪化する可能性が高いことを知りました。

私は、実家に行くとはそれ以上言えませんでした。

「私のせいで、父親を傷つけてしまった。その結果、母親が病気になって手術を受けるというのに、近寄ることも出来なくなった。」

自分を責めましたが、どうしようもありません。母親はその後も癌の再発と手術を繰り返していました。しかし、私は時々兄から両親の様子を聞くことしか出来ませんでした。

実家のことを気にしつつも、精神科医としての生活は変わらず続きます。

栃木県内での2年間の研修医生活を終えて、2005年6月から埼玉県内の病院で働き出しました。

研修医が終わっても、頼まれた仕事は大体何でも引き受けようという気持ちは持ち続けていました。

「どうせ何をやってもダメなんだから、せめて人よりきついことだけは積極的に引き受けなきゃ。」その考えは持ち続けました。

その結果、医師4年目の夏頃から私は徐々に不調を自覚するようになりました。

右目の横が勝手にけいれんし、目を閉じてしまうようになりました。いつの間にか治ったのですが、今度は胃の不調や胸の痛みが頻繁に出現し、食欲が落ちました。

研修医が終わったあたりから、体重が増え続けることに危機を感じて時々走っていたのですが、毎月のように胃腸炎でダウンしたり、風邪を引いてしまい、継続して走ることが出来ませんでした。数ヶ月全く走らないこともありました。しかし、運動はしていないにも関わらず70kg近くまで増えていた体重は段々減り、気付けば60kgを切っていました。睡眠の質も明らかに低下しました。

埼玉県内の病院では4年間働きましたが、体調不良で苦しんだばかりではなく、精神科医としての具体的な方向性が決まった時期でもありました。

栃木県、埼玉県で働いてみて、地域の精神科医療の流れを考えた時に、その最初の窓口である開業医がしっかり機能しないと、その地域はうまく回らないと感じました。ならば、「精神科開業医がいない地域で精神科クリニックを開業して、その地域の窓口としてしっかり役割を果たしたい。」これが私の開業を志す理由となりました。大学を卒業する時には、漠然とした考えで開業医になりたいと言い、両親と衝突しました。ここに来て、開業をしたいはっきりした理由を決めることが出来ました。

また、数は少ないのですがスポーツ選手の診療をする機会も時々ありました。部活動としてやっている学生、社会人、さらにはプロとして競技をしている選手がいましたが、その多くは精神的な不調に陥ったことを周囲から理解されず、我慢して悪化してようやく病院を訪れていました。また勇気を振り絞って病院を受診しても「病気じゃないから。」と医師に相手にされなかったり、「競技を辞めたら良いだけ。」とスポーツを辞めることの重さを理解されなかったりして苦しんでいました。

私が中学1年生の時に、「病気じゃない。」「皆乗り越えているんだから。」と言われた時と何も変わっていないんだなと実感しました。

開業をしたら、スポーツ選手の診療にも力を入れたいと思うようにもなりました。

4年間埼玉県内で勤務した後は、2009年4月から2年間栃木県内の病院で働きました。埼玉県内で開業場所を探しておおよその場所は決めていたのですが、あまりに忙しくなりすぎて開業準備のための時間が取れませんでした。そこで、研修医時代からずっと非常勤で働いている栃木県内の病院に相談し、そこで常勤医として勤務しながら、開業準備をすることにしました。このような我が儘を言う私を受け入れて頂いたことは感謝してもしきれません。

栃木に転勤したことが、ランニングを本格的に再開するきっかけにもなりました。

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