4回目のうつ病悪化

2010年11月末になって、突然眠れなくなりました。それまではいくら寝ても疲れが取れない状態だったのに、今度は一睡も出来ません。

12月頭にフルマラソンの大会に出る予定だったので、最初は「もしかしてまた中学生の時みたいに緊張しすぎているのかな?大会が終われば落ち着くだろう。」と思っていました。

ただ、練習の一環として走るつもりの大会でしたしそこまで緊張するはずがないのに、という違和感もありました。吐き気や食欲低下もありましたが、走れないほどではないため大会に出場しました。眠れない、食欲もない状態でしたから最初から体が動かず、3時間11分かかって何とか完走しました。

大会が終わって眠れるようになる、と思っていたのですが、その後も眠れない日が続きます。全身の異様な筋肉痛が続き、何日経っても回復しません。食欲低下や吐き気も続き、全身倦怠感が強くなりました。

診療をしても上の空で、話しが頭に入ってこず、頭が働いていません。夜は横になっても一睡も出来ず、少し寝ても悪夢で目が覚め、体が常に緊張している状態でした。

12月中旬からは仕事に行けず、家で寝ているしか出来ませんでした。少し前までは長い時間走っていたのに、走ることなど到底出来ません。2011年2月に、「別府大分毎日マラソン」というテレビでも放映される大会に初参加する予定で、それを目標に練習をしてきました。しかし、それどころではなくなりました。

走るどころか、家から外に出ること、入浴すること、着替えることさえもとても困難な作業になりました。冬場とはいえ汗もかきます。着替えず入浴もしないと不潔であると分かっているのに、体が動きません。

「とにかく眠りたい。」と自宅近くの病院を受診し、睡眠薬と抗不安薬を処方されました。「これで眠れる。」と思ったのですが、薬が全く効かず眠れません。

栃木県の職場までどうにか出勤して、医師に相談しました。そこで睡眠薬等を処方されたのですが、それでも眠れません。

食事は摂れないし、気分も落ち込んで生きているのがつらくなりました。さらには薬の副作用にも苦しみました。

「アカシジア」と呼ばれる副作用があるのですが、この副作用が出ると体がムズムズしてじっとしていられなくなります。ただでさえ死にたい気持ちがあるところにアカシジアが加わってソワソワと落ち着かず、自殺をして楽になりたいと考えました。

自分の持ち物のうち大事なものは人にあげる、捨てるなどして処分をしました。処分をしている時だけはなぜか気持ちが晴れやかで、スムーズに動くことが出来ました。

何度も自殺のタイミングを計り、「今がチャンスだ!」と動きましたが、あと一歩が踏み出せません。

薬を変えることでアカシジアは消えましたが、眠れず食欲もなく、気分は沈んで倦怠感も強く、死にたい気持ちが強い状況は続きました。

どうにか仕事には行き、時々入ってくる開業の打ち合わせにもどうにか顔を出していました。しかし、改善する希望は持てず、いつ自殺してもおかしくない状況でした。

2011年1月末からは再び仕事を休みました。「4月1日から開業予定なのに、絶対無理だよ。」そう思いましたが、別に周りの方々が動いて下さり、着々と準備は進みます。整わないのは私の調子のみでした。

それでも2月に入ると、薬を服用していて眠れて食欲もあって調子が良い日が数日続くこともありました。その時には、「今度こそ治るのではないか!」と少し明るい気持ちになりました。しかし、その後に再び全く眠れず気分は落ち込みます。

「良くなるかも。」と期待しただけに反動は大きく、もう治らないのではと絶望しました。

その度に医師に訴えて薬を変更していました。本来は抗うつ薬の効果というものは時間をかけてゆっくりと出てくるので、やたらと変更すると効果があるかないか判断出来ず、結果的に回復が遅れることが多いと分かっていても、つらい状態を1日たりとも耐えることが苦しくて待てませんでした。

依然として病状が落ち着かない最中、2011年3月11日には東日本大震災が発生しました。

「多くの方が被災して亡くなった。生きるべき人が亡くなって、何で自分みたいな役に立たない人間が生きているんだ。情けない。」そう思って自分を責めていました。眠れず体が怠く、食欲がない状態は続きました。1日たりとも生きている自信がない、そんな状態でした。

電車の間引き運転や計画停電などもあり、開業も延期した方が良いのではないかという話しが出ましたが、何をどうして良いのか決断出来ないまま、2011年4月1日に北本心ノ診療所を開院しました。

ランニング再開、母の死、開業準備と大きく動いた2年間

2009年4月から栃木県の病院に転勤しましたが、その病院は駅から離れた4kmほど場所にありました。非常勤医として週1回勤務していた頃は、他の先生のご厚意に甘えて駅まで車で送って頂いていました。しかし、毎日というのはさすがに申し訳ない。そう思った時に、「片道4kmなら、着替えを背負っても走って往復出来るんじゃないか?」と思い立ちました。

ランニング雑誌などで「通勤ラン」という言葉を目にしたこともあり、私も取り入れてみようと試してみました。

着替えを入れた重い荷物を背負い、自宅から最寄り駅までも走ったので、往復12~13kmを走りました。

大学を卒業してから6年間、あまり走れていない時期が続いたので体力は落ちており、ゆっくり走っていても最初はかなり疲れました。

それでも毎日続けていると、徐々に走れるようになってきました。余力が出来ると、ちょっとペースを上げてみたり、電車の時間を計算して遠回りして多く走ってみたり、通勤しながら負荷の高い練習をして、走力が戻って来るのを実感しました。

業務自体も前の病院時代より軽くなり、毎月のように大きく体調を崩すことはなくなりました。体重は55~57kgくらいで変わりませんでしたが、筋肉がついて脂肪が落ちたためで一時の病的な状態からは脱していました。しかし、胃の不調は続き、食欲にはムラがありました。また、胃の不調と共に時々異様な倦怠感に襲われ、いくら寝ても疲れが取れないと自覚する日も増えていました。

2010年からフルマラソンの大会に参加するようになり、2月の大会では低体温で途中棄権をしましたが5月の大会では2時間57分で走ることが出来ました。しかし、私の兄が遙かに速くフルマラソンを走っていることもあってこの記録には全く満足出来ず、「もっと練習しないとダメだ。こんなタイムでは話しにならない。」と自分を追い込むばかりでした。

中距離(1500m)が中心だった大学時代と比べて、走行距離ははるかに多くなりました。

前の即場よりも業務が軽いと言っても毎週当直はありますし、通常業務の合間を縫って開業準備もしていたので忙しい生活ではありました。

また、この間には大きな出来事がありました。2010年3月に、闘病生活を送っていた母親が亡くなったのです。

実家とは絶縁状態が続きましたが、2010年に入ってからは両親と少し電話で話すことが出来るようになっていました。お互いによそよそしくぎこちない会話で、短時間しか続きませんでしたが、それでも話せるようになったのは大きな進歩でした。

しかし、2010年3月に入ってからは母親が会話を出来ない状態となり、自宅で父親が介護をしている状況だと兄から聞きました。

父親に実家に行って良いか確認して、久々に実家を訪れました。母親は意識が混濁して会話が出来ず、時折うわごとのように言葉を発していました。

「久しぶりに会えたのに、もう2度と話すことは出来ない。自分が反抗して意地を張ったからだ。」と自分を責めました。ずっと滞在していたかったのですが、長時間私と一緒にいることで父親の病状が悪くなるのではないかという不安もありました。普通に会話はしているもののどこか緊張感がありました。長く滞在すれば、せっかく落ち着いている父親が私のせいで悪くなってしまうかもと考えて、1泊だけで自宅に戻りました。

しかし、自宅に戻った夜に兄から電話がありました。「父親から電話があったけど、いよいよ母親が危ないらしい。明日一緒に実家に行こう。」

翌朝、再度実家に向かいました。今度は兄達も一緒なので父親の調子が崩れる心配は少ない、と安心感がありました。

前夜の電話の様子では朝までもたないかも、と感じていましたが、私たちが実家に着く昼過ぎまで母親は生きていました。そして、私たちが到着するのを待っていたかのように息を引き取りました。

結局、関係を完全には修復することなく、親孝行らしいことは出来ませんでした。母親が亡くなる前に俳句を詠んでおり、亡くなってから母親の句集を父親がまとめてくれました。その句を見ると、私と絶縁状態になっても母親が私のことを気にかけてくれていることが痛いほど分かりました。

それなのに私は、母親の気持ちを分からず、ただ反発して、関係を断って、感謝の気持ちを伝えることもなく終わってしまったことを強く後悔しました。かといって何も取り戻すことは出来ません。

母の葬儀が終わると、また日常に戻ります。相変わらず胃の不調は続き、時折異様な倦怠感に襲われ、疲れが取れない日はありますが、開業の準備をして、ランニングも続けて、比較的平穏な日々が続いているかのように感じていました。

しかし、平穏な日々は突如乱れました。

母親の病気と実家との距離

研修医1年目の時に、母親がガンを発症しました。

兄からの電話でそれを知った私は、実家に電話をしました。

両親と大げんかして疎遠になったとはいえ、心配をした私は「休みを取って実家に戻るよ。」と電話に出た母親に話しました。

しかし、母親は「いや、忙しいやろうから無理しないで良いよ。」と繰り返すのみです。

確かに忙しい生活ではありますが、職場に事情を話して申請をすれば数日休むことは可能でした。休みは絶対に取れるから、日帰りでも顔を出すと告げる私に、母親はようやく事実を話しました。

「実はお父さんが・・・」

父親は私との電話での口論を機に精神的に不調となり通院をしていること、私の話しをするだけで不安定となり、と会うことにより病状が大きく悪化する可能性が高いことを知りました。

私は、実家に行くとはそれ以上言えませんでした。

「私のせいで、父親を傷つけてしまった。その結果、母親が病気になって手術を受けるというのに、近寄ることも出来なくなった。」

自分を責めましたが、どうしようもありません。母親はその後も癌の再発と手術を繰り返していました。しかし、私は時々兄から両親の様子を聞くことしか出来ませんでした。

実家のことを気にしつつも、精神科医としての生活は変わらず続きます。

栃木県内での2年間の研修医生活を終えて、2005年6月から埼玉県内の病院で働き出しました。

研修医が終わっても、頼まれた仕事は大体何でも引き受けようという気持ちは持ち続けていました。

「どうせ何をやってもダメなんだから、せめて人よりきついことだけは積極的に引き受けなきゃ。」その考えは持ち続けました。

その結果、医師4年目の夏頃から私は徐々に不調を自覚するようになりました。

右目の横が勝手にけいれんし、目を閉じてしまうようになりました。いつの間にか治ったのですが、今度は胃の不調や胸の痛みが頻繁に出現し、食欲が落ちました。

研修医が終わったあたりから、体重が増え続けることに危機を感じて時々走っていたのですが、毎月のように胃腸炎でダウンしたり、風邪を引いてしまい、継続して走ることが出来ませんでした。数ヶ月全く走らないこともありました。しかし、運動はしていないにも関わらず70kg近くまで増えていた体重は段々減り、気付けば60kgを切っていました。睡眠の質も明らかに低下しました。

埼玉県内の病院では4年間働きましたが、体調不良で苦しんだばかりではなく、精神科医としての具体的な方向性が決まった時期でもありました。

栃木県、埼玉県で働いてみて、地域の精神科医療の流れを考えた時に、その最初の窓口である開業医がしっかり機能しないと、その地域はうまく回らないと感じました。ならば、「精神科開業医がいない地域で精神科クリニックを開業して、その地域の窓口としてしっかり役割を果たしたい。」これが私の開業を志す理由となりました。大学を卒業する時には、漠然とした考えで開業医になりたいと言い、両親と衝突しました。ここに来て、開業をしたいはっきりした理由を決めることが出来ました。

また、数は少ないのですがスポーツ選手の診療をする機会も時々ありました。部活動としてやっている学生、社会人、さらにはプロとして競技をしている選手がいましたが、その多くは精神的な不調に陥ったことを周囲から理解されず、我慢して悪化してようやく病院を訪れていました。また勇気を振り絞って病院を受診しても「病気じゃないから。」と医師に相手にされなかったり、「競技を辞めたら良いだけ。」とスポーツを辞めることの重さを理解されなかったりして苦しんでいました。

私が中学1年生の時に、「病気じゃない。」「皆乗り越えているんだから。」と言われた時と何も変わっていないんだなと実感しました。

開業をしたら、スポーツ選手の診療にも力を入れたいと思うようにもなりました。

4年間埼玉県内で勤務した後は、2009年4月から2年間栃木県内の病院で働きました。埼玉県内で開業場所を探しておおよその場所は決めていたのですが、あまりに忙しくなりすぎて開業準備のための時間が取れませんでした。そこで、研修医時代からずっと非常勤で働いている栃木県内の病院に相談し、そこで常勤医として勤務しながら、開業準備をすることにしました。このような我が儘を言う私を受け入れて頂いたことは感謝してもしきれません。

栃木に転勤したことが、ランニングを本格的に再開するきっかけにもなりました。

医療の現場からレポート⑧

心の運動療法家、岡本浩之です。

精神科クリニックで診療をしていて感じたこと、思っていることを「医療の現場からレポート」と(大げさに)題してお伝えしていきます。

SNSでの誹謗中傷について

匿名のアカウントからSNSで他人を誹謗中傷する問題について、ネットやテレビなどで特にここ数日議論になっていますね。

SNS上でも対面であっても、誹謗中傷する側にはそこまでの悪意がない、そして自分の言葉が相手を傷つけることについて無頓着であることが多いです。

相手のことを許せないと思って、怒っただけ。

でも、相手だって悪い奴なのだから、何を言っても(しても)文句を言われる筋合いはない。

嫌だと思っても、いちいち気にしないでスルーすれば良いじゃないか。気にするということはやましいことがあるからだ。

誹謗中傷する側の意見として見かけたことがある言葉を一部並べてみました。

誹謗中傷するのは人としてやってはいけないことだ。厳罰化すべきだ。そういう意見がテレビでもネット上でも多い気がします。

もちろん、どんな理由があっても他人を誹謗中傷することなどやってはいけないことですし、悪質なものには罰則が設けられることにも賛成しています。

誹謗中傷は特別な人間だけがすること?

ただ、誹謗中傷することを他人事ととらえている人が多いことにも違和感があります。

他人を誹謗中傷することって本当に自分には無関係なことなのでしょうか?

ツラい時、苦しい時、当たれる相手についつい八つ当たりをしてしまったことはないですか?

相手を怒る時に、思わず強い口調で相手を否定するようなことを言ったことはありませんか?

自分としては何気なく出てしまった言葉かもしれないです。私だってツラかったのだからそれに免じて許してくれたって良いじゃない、と思うかもしれません。

それをいうなら、相手だって私のことを理解してくれなかったのだから。私にそれくらい言わせて欲しい、と思うかもしれません。

怒らせたのは相手の方でしょう?と思うかもしれません。

でも、言われた相手の心には深い傷として刻み込まれて、ずっと残ることはあります。

言ってしばらくしてから相手が傷ついたことを知り、そんなつもりはなかったのに、と後悔しても取り戻せません。

何を勝手に傷ついているの?と腹立たしくなるかもしれませんが、相手を傷つけたことは事実として残ります。

私も含めて、誰もが誹謗中傷を行う可能性はあり、それに対しての責任を問われてもおかしくない立場だと認識しないといけません。

自分だけはそんなことをしない。その思い込みがある限りは誹謗中傷が簡単に起きてしまうように感じます。

気をつけていたらキリがないけど…

実際、私にも「言いすぎた。」と後悔したことはいくつもあります。「本当にこんなことを言う必要があるのかな?」と迷い悩むことは今でも沢山あります。

診療の時もそうです。患者さんの希望に沿えない、厳しい対応をしないといけない、そのような時にもやはり迷いがあります。

私の言動によって相手は傷つき、私の言動のせいで自傷行為をしたり、命を絶つ可能性もある。それでもその言動は必要なのか?もし責任を取れと相手やその家族から訴えられた時、慌てふためいたり後悔したりしないのか?

そう自分に問いかけてから、伝えるようにしています。

それだけよく考えてから伝えても、暴言を吐かれた、傷ついたと受け取る側がとらえることは当然あります。

ですから、伝えた後にも、「本当にあの言動は必要だったと思えるのか?」「どんな結果になっても責任を取れる、その覚悟はあるのか?」と自分に問いかけています。

そんなこと気を付けていたらキリがないし何も言えなくなるよ、と窮屈に思う方もいるでしょう。

確かにキリがないし、誰も傷つけない言葉を常に使うのは不可能なことではあるのですが、難しいからこそ自分の言葉の重さは強く自覚しておこうと私は思っています。