私がこれから進む道

たまたま近隣の市で勤務をしていた関係で、それまで縁もゆかりもなかった埼玉県北本市にて2011年4月に北本心ノ診療所を開業して、今年で10年目になります。

開業の柱として私は、「地域精神科医療の窓口になること」「スポーツ選手の診療に力を入れること」の2つを掲げました。

現在は1日60人くらいの患者さんを毎日診察し、休診日には市内や近隣にも出向いて相談業務などを行い、この地域の精神科医療の窓口としてだいぶ認知されつつあるのではないかと感じています。

その一方で、診察室内で出来ることには限りがあるなとも強く感じています。

どれだけ丁寧に診察しても、当たり前ですが1日の大半の時間を診察室外で過ごします。来院する患者さんの診察をすることはもちろん大切ですが、精神疾患の予防、治療のためには診察室にこもっていては限界があるとも強く感じています。外に出てより多くの人の日常に触れていくことを心がけていきたいと思います。

また、診療所を開院する際に「スポーツ精神外来」を掲げてスポーツ選手のメンタルケアにも取り組んでいます。診療形態については試行錯誤を繰り返しましたが、通常の診療と別枠でメールにて連絡を頂いて予約するというスタイルにしています。開業してから130人以上のスポーツ選手(ジュニアから社会人、実業団、プロまで幅広く)の診療を行ってきました。

現在はスポーツ選手のメンタルケアにも注目が集まり、大分理解がされるようになったと感じる一方で、私が中学1年生の時に言われたような、「それくらい乗り越えないと。」という言葉で片付けられることもいまだに多いようです。「競技を辞めればいい。」と簡単に言われてしまうことも多いようです。つらい気持ちを改善したくて受診をしたのにそう言われてしまうと、絶望的な気持ちになりますよね。

せっかく才能があるにも関わらず精神的な不調で競技を断念する選手が多いこと、スポーツに対して否定的なイメージを強く持って辞めてしまう選手が多いことは非常にもったいないと思います。せっかく選んだスポーツですから、少しでも長く続けて欲しい、そのスポーツを好きなままでいて人生に活かして欲しい、というのが私の願いです。

スポーツ精神外来を受診する選手は皆、素晴らしい才能を持ち結果も出しているのに、それを自信に変えることが出来ず悩み、精神的な不調に陥っています。診察で話しをしていく中で、不調の今でも出来ることを探していくこと、出来ることを積み重ねていく作業を一緒にしています。

多くの選手は運動しか出来ない自分を卑下しますが、何気なくやっていること自体が実はすごいのです。

診療所で患者さんと一緒に運動をしている「院内フィットネス講座」を開催しているのですが、そこに現役スポーツ選手や元スポーツ選手を講師としてお呼びすることがあります。選手にとっては普段の練習でやっている何気ない動きであっても、私や患者さんから見ると「え?こんなにもすごいことが出来るの?!」と毎度驚いています。選手達と接して、患者さんは普段の診察では見せないような生き生きとした表情をして、院内では普段見られないような良い動きをしています。スポーツが精神疾患の治療に役立っていると実感しています。

スポーツを長く続けていると、引退した時に「社会に通用しない人間」というレッテルを貼られることがあります。

スポーツの世界で生きてきたのですから、生活スタイルや考え方の違いはあっても仕方ありませんが、スポーツに専念してきた時間は決して無駄なことではありません。競技としてやってきた動きは運動療法として精神疾患の治療や予防に活かすことが確実に出来ます。また、プレッシャーのかかる中で結果を出すための取り組みは、多くの人の参考になります。

それだけ素晴らしいことをやっているのだと自覚して、競技に取り組んで良いと考えています。

スポーツ選手のメンタルケアをしつつ、スポーツを精神疾患の予防や治療に活かすこと。私自身がスポーツをきっかけとしてうつ病を発症し、繰り返して回復する過程でたどり着いた私の役割です。

多くの方と一緒に運動を楽しみながら、皆が精神疾患を予防し、発症しても治療が可能な世の中を作っていけたらいいなと思います。

薬を正しく理解する

精神科医として17年勤務しておいて、今更「薬を正しく理解する。」というのはおかしな話しではありますが。

私は中学時代に市販の風邪薬を一気に飲んでしまったり、大学に入ってからは通院しましたが、吐き気や倦怠感の副作用が強すぎて、医師には言わず自己判断で中止しました。そして時々思いだしたように飲んでみては強い副作用でまた飲むのを中止して、ということを繰り返していました。

医師になってからようやく、薬の副作用や効果について知識として深く理解しました。私がうつ病になった時にも、今度こそ医師の処方通りに服用し、副作用についても伝えました。

しかし、知識として理解しているのと実体験では印象が全く違います。

「抗うつ薬は効果が出るまでに時間がかかる。効果が出るまでは頻回に処方を変更するのではなく、一定期間待つ必要がある。」と分かっていても、病状があまりにもツラくとてもではないけど待てませんでした。待てずに医師にお願いをして、何度か変えてもらいました。変えた結果、一時的に症状が落ち着くことはあってもまた悪化することを繰り返していました。悪化するとまた耐えられずに変更して・・・を繰り返してしまいました。

結局一番効果があったのは、最初に服用していた抗うつ薬でした。仮に抗うつ薬を最初のまま変えずに服用していたら、もっと改善が早かったのかもしれません。変えていなくても効くまでに同じくらい長い時間がかかった可能性もあるので何とも言い様はありませんが。

効果が出るまで待たなければいけないことのツラさと共に、効果が出るまでに待つことの大切さも実感しました。診療で患者さんに説明する際には、私の体験したことを強く意識しながら、実感を込めて伝えるようになりました。

また、薬の副作用が人によっては強く出ることは知識として、あるいは診療の中で知っているつもりでしたが、死にたい気持ちがより強まるような重い副作用を経験して、改めて薬の怖さを思い知りました。

私はある薬を服用して、体がムズムズしてじっとしていられない症状が出て耐えられなくなり、窓からすぐにでも飛び降りたいような気持ちになりました。飛び降りそうになりましたが、実行しようとしたその時に他の人に声をかけられたりして思いとどまりました。

その薬は決して特殊なものではなく、大きな副作用なく服用しているものでした。精神科だけではなく、内科でも割と出されるようなありふれたものです。依存性の高いものでもありません。また、服用量も決して多いわけではなく、むしろ今後もっと増やした方が効きやすいのではと思うような量でした。最初は副作用だと気付かず、うつ病の症状が悪化して死にたい気持ちが強まったのかと思いました。しかし、もしかしてと思ってその薬を中止したら、死にたい気持ちはありますがじっとしていられない、窓からすぐにでも飛び降りたい切迫感は減りました。

副作用を気にしすぎて少ない量をダラダラ服用し続けるのも実際には良くないのですが、副作用の訴えには敏感であり続けようと考えています。

精神科で扱う薬に関しては否定的な意見も多くあります。話しを聞かない医者が薬漬けにして楽をするためのもの、危険なもので飲んだら余計に悪くなる、などと言われています。

薬の処方の仕方について、私たち精神科医はまだまだ気を付けていかないといけません。必要以上に多くの薬を、「患者さんが希望するから」と言い訳して処方していないか。増やすことは積極的でも、減らせる薬があるかどうかについては充分考えていないのではないか。反省して改善する点はあります。

ただ、薬は危険だからどんな症状でも一切飲むべきではないという極端な考えには私は医師としてだけではなく一人の患者としても賛同出来ません。

合う薬があったからこそ、私のうつ病は改善し、死にたい気持ちに完全には流されずに、こうして生きていられると実感しています。今も薬は服用していますが、完全になくすと何かの拍子にまたうつ病が悪化して、今度は死にたい気持ちに抗えないかもしれません。そうならないために、いつまでなのか分かりませんが薬の服用を続けます。

ただ、副作用から命を落とす可能性も実感したので、病状が崩れない範囲で少しでも減らせる薬があれば減らしたいと考えています。

また、薬を飲んでいるから後は何も気にしなくても大丈夫、とも思いません。薬を飲むだけでは私のうつ病はコントロール出来ないと感じていました。薬を使いつつも、何かプラスαのことをしていかないとまた再発するだろうと考え、そのプラスαとして私に合うとたどり着いたのが、うつ病になるきっかけでもあったランニングでした。

回復してようやく始められた振り返り

2014年以降は精神的に随分安定しましたが、自分のこれまでを振り返ることが出来るようになったのは2016年頃からでした。

それまでは、自分の苦しい体験を思い出そうとするととてもツラく感じたり、「また悪くなったらどうしよう。」と不安が強くなるので思い出せませんでした。

私のうつ病の治療に関わった方には少し話しをしましたが、詳しく話すことはなく、大半の方には私がうつ病だということは気付かれていませんでした。

2017年頃からは私の病状を詳しく振り返ることが出来るようになりました。発症したのが中学1年生の時ですから1991年です。26年の時間がかかって、ようやく受け入れたのです。

4回うつ病を繰り返している中で死にたい気持ちが強まり、一歩間違えたら死んでいる、そんな状態に何度もなりました。家族がいるのに死んだら残された家族がショックを受ける、命を大事にしないといけない、そんなことは分かっていても、それよりはるかに大きな力によって死に引き寄せられました。

もし5回目のうつ病が起きたら、今度こそは死にたい気持ちに逆らえず自殺を成功させてしまうかもしれない、そう感じました。

再発させないためには、うつ病になりやすい要因を少しでも減らして行く必要があります。

ここまで私が自分の生い立ちや病歴を長々と振り返ってきたのは、決して「私はこんなに大変な経験をしました。かわいそうな人です。」と言いたいからではありません。

私が自分の経験を振り返り、また精神科医としての診療経験から得てきたことを多くの方に伝えたい、その長い前置きとして、振り返りました。

私は子供の頃から自分に自信がなく、ことあるごとに自分のことを否定しました。高校時代に模擬試験で全国1位を取った時ですら、自分を高く評価することが出来ませんでした。おそらく、仮に何かで世界1位になったとしても、当時の私は「まぐれだ。すぐに転げ落ちて、周りから馬鹿にされる。」などと考えて自信に出来なかったと思います。それくらい、何をやってもダメなヤツだと自分を卑下していました。

今でもその考えが根本から変わることはありません。何かあると「やっぱり自分は何をやってもダメだな。」とすぐ考えて自分を責めます。長年染みついた考え方は簡単に変わるものではないですから。

しかし、この考えが絶対的に悪いものだと否定する気持ちはありません。ダメだと思うからこそ、もっと頑張らなきゃと思う力にもなってきました。受験勉強の世界だけではありますが、全国1位になったこと、東京大学理科3類に現役合格したことは、自分をダメなヤツと否定する自信のなさが生んだものと考えています。

また、視野が狭くなり何かに過集中といえるほどのめりこむのも私の特徴の一つです。子供の頃は陸上競技で生きることだけを考えてそれを生きる支えにして、中学受験、大学受験でも勉強だけに集中して自分の思う結果を出しました。医師になってからも過集中となって人並み以上に頑張れました。これも生まれつき持っているもので、治せるものではないと思います。

自分に自信がなく自分を否定すること、視野が狭く過集中になることが私の頑張りの源である一方で、うつ病になった原因の一つと言えます。ですから、「治せないものは仕方ない!」と開き直るのではなく何か変える必要はあります。といっても、自信を持てとか集中しすぎるなとかいきなり言われても変えられるものではありません。気の持ちようだけで変われるくらいの簡単なものならば、そもそもうつにはならないでしょう。

これは多くの方が既に試みていることかもしれませんが、私が日々意識したことは、「今のダメな自分でも出来ていること、頑張ったら出来そうなことは何か。」と自分に問いかけて具体的に見つけ出すことでした。

最初は「頑張っていることなんて何もないよ!」「こんなの出来たって、出来たうちに入らないよ!」とくじけそうになっていました。

そこで私が完全にくじけなかったのは、既に紹介しましたが、以前にかけられた友人の言葉があったからです。

「5分しか走れなかった。」とうつ病を経験して走れなくなったダメな自分の状態を友人に伝えたところ、その友人は「5分も走れたの?前は外に出てすぐ引き替えしていたじゃん。段々走れているね。」と言ってくれました。

半年前はもっと走れていたのに、こんなにも走れなくなるのか、と落胆している私の心にはずっと残りました。その時の友人と同じように、「何も出来ない私しか知らないもう一人の『私』だったらどんな言葉をかけてくれるかな?」そう想像して、どんな些細なことでも良いから、今の時点で出来ていることを探して書き出し、もうちょっと頑張れば出来そうなことも書き出しました。

極力目線を低くして出来ていることを見つけ出し、頑張れば出来そうな低いハードルを設定しました。低いハードルを設定して、それをクリア出来たら「出来て当たり前」ではなくて「ちゃんと超えられた」ことを意識するようにしました。

もちろん、周囲の出来ている人のことは嫌でも目に入ります。「それだけしか出来ないの?」という声も耳に入ります。そんな時には比べて落ち込んでしまいます。これまでは落ち込んだらずっと落ち込みっぱなしでした。

しかし、最近では落ち込んだままではなく、「それでも、私には出来ていることがある。まだこれから出来ることもある。」で終われるようになってきました。

また、過集中になって簡単に限界を超えてしまうことに対しては、「頑張り過ぎないようにしよう」と加減するのは難しいと感じたので、「過集中となって頑張ってしまうのは仕方ない。その代わり、無理矢理休養をして回復させる期間を作ろう。」と意識するようにしました。

休養することにはものすごい罪悪感があります。「サボってしまった。もっと頑張れたはずなのに。」とマイナスに捉えがちです。しかし、休養をおろそかにして無理を重ねた結果力尽きてしまったりうつ病になるのですから、「休養はその後にまた頑張るために必要なもの。」と強く意識するようにしました。休養をした後にどう頑張るかを具体的にイメージして、少しでも休養中の罪悪感を減らそうとしています。

ようやく得られた安定と、残った新たな不調

ランニングに関してはその後も継続し、2013年2月にはフルマラソンで2時間49分を出しました。その後足の故障を繰り返して練習が積めなくなりましたが、2018年2月に2時間48分と少しですが記録を伸ばすことが出来ました。中学時代からあれだけ苦しんでいた、走ると吐きそうになるという恐怖心はなくなり、内臓の不調で走りながら吐くことはあっても、意に介さなくなりました。100kmのウルトラマラソンにも挑戦し、タイムは悪いものの完走しています。2018年以降は仕事が多忙となり休日も少なくなったので、大会参加を少なくしていますが、練習量を減らしつつもランニングは続けています。また時間が出来たら、記録更新のために練習をしっかりして大会に参加したいと考えています。

2013年頃までは異様な倦怠感、不安感、意欲低下が強くなることもありましたが、死にたいというような大きな症状が出ることはなく、病状は落ち着いています。

うつ病が回復していない時には、眠れないことに対して非常に神経過敏でした。1日でも眠りが浅い、寝付けない日があると、「また悪くなるのではないか。」と不安が強くなっていました。現在も服薬は継続していて、疲れやすさは感じていますが、眠れなくても「今日だけだろう。」「眠れる時に眠れば良いか。」等と考えて過剰に不安に思うことはなくなりました。減薬のペースが早すぎると頭が重く、ソワソワと落ち着かない感覚も出るなど、まだまだ油断することは出来ませんが、一番多く服用していた頃と比較すると服用量は減りました。

ただ、4回目のうつ病になってから、体に大きな問題が生じました。元々お菓子類は好きで食べていましたが、服薬をして安定してくると夜遅くになってやたらとお菓子を食べたくなりました。眠れないと我慢出来ずに毎晩のようにお菓子を食べてしまい、満腹になるとやっと寝るというのが習慣付いてしまいました。夕食は普通に食べて、その後少ししてから、お腹が空いているわけではないのにお菓子を食べ出してしまいます。食べ出すと止まらなくなり、計算すると毎晩寝る直前に2000キロカロリー以上もお菓子を食べていました。

ランニングで月400~600kmも走っているからカロリー消費するだろうと甘く考えていたのですが、手足は細いのにお腹周りだけ太くなり、体重も少しずつ増えて65kgくらいになりました。お菓子をやめると少し減るのですが、我慢出来ずに食べてしまうとまた増えます。

体重が増えるだけではなく、体の大きな不調が起きるようになりました。特に2014年以降ですが、お菓子を少し食べると急に汗が出て心臓がドキドキして息苦しくなり、吐き気がして吐いてしまいます。この発作が最初は1時間以内で落ち着いていたのが、段々症状が悪化してひどい時には24時間以上も続くようになりました。発作が起きると全身の筋肉痛や倦怠感が生じて、回復に1週間程かかります。お菓子を食べ続けて血糖のコントロールがうまく出来なくなり、苦しい発作が起きていました。

お菓子を程ほどに食べるだけなら大丈夫、と思いますが、完全に依存しているようで食べ出すと歯止めが利かずエンドレスで食べ続けてしまいます。病院で相談もしたのですが、対策としては結局お菓子をやめるしかないようです。何度か失敗しましたが、2020年3月末からはどうにかお菓子を我慢しています。

「お菓子くらい良いじゃない。食べちゃえば?」と勧めてくる方もいらっしゃるのですが、食べ出すと普通の量では止められないこと、その結果として強い発作が出て苦しむことを思い出して断るようにしています。あれだけ好きだったものを食べられないのは寂しく、食べたい気持ちは今でもありますけどね・・・。

ランニングを再開

2011年4月1日、うつ状態が改善しないままですが北本心ノ診療所を開院しました。

周囲の方々は「おめでとう!」と言って下さるのですが、「この状況でいつまで続くか。明日にもダメになるかもしれない。」と不安でした。

死にたい気持ちは徐々に薄れていたので改善はしていたのでしょうが、やはり眠れなくて食事が喉を通らない状態は続いていました。

うつ病が再発する前に55kgだった体重は、3ヶ月の間に7kg増えていました。食事量はかなり減りましたが、運動を出来ていないことや薬の副作用での体重増加でした。

開業してしばらくは患者さんが少なく、何もしないでぼんやりする時間が多くありました。

1月末から仕事をしていなかったこと、そして4月以降も忙しくなかったことが結果的には良い休養となったようでした。また、薬もようやく効果を発揮し始めて、2011年6月頃からは気分も楽に食欲も安定してきました。「前みたいに、数日良くて油断して急に悪くなるのではないか。」という不安はありましたが、夏頃にはその不安も減ってきました。

そして、安定する中で何気なくランニングを再開しました。と言っても、最初からスムーズに走れたわけではありません。「走ろうと思ったけど、外は寒そうだからやめておこう。」「着替えてはみたけど、やっぱり外に出たくない。」「外に出て走ってみたけど、すぐ疲れて体が動かない。」などと、中々走り出せませんでした。

「1分しか走れなかった。」「5分しか走れなかった。」「前はもっと速く走れていた。」などと、走りに行っても落ち込むことのほうが多かったです。

なぜランニングを再開したのかはっきり思い出せませんが、「体重も増えたし、体を動かした方が良いかな。」という程度かもしれません。

前はもっと走れていたのに、半年くらいでこんなにも走れなくなるのか、と落胆していましたが、私の友人からの言葉で心に響いたことがありました。

「5分しか走れなかった。」と暗い気持ちで伝えたところ、その友人は「5分も走れたの?前は外に出てすぐ引き替えしていたじゃん。段々走れているね。」と返しました。

言われて、「確かにそうだ。」と妙に納得しました。フルマラソンを走っている自分からしたら5分なんて走ったうちに入らないのかもしれないけど、着替えることも出来なかった自分からしたら5分でも大きな変化です。

それからは、前にどれだけ走れたかは一切考えないようにしました。まず1分、それが出来たらもう1分、と目標を出来るだけ低くして、出来る範囲内で走ることだけを考えました。

抗うつ薬と睡眠薬の服用はずっと続いていましたが、少しでも効かないと私が待てずにコロコロ変えていました。しかし、結局一番効果があったのは、2011年1月に服用を開始した薬でした。色々と変えてみた結果、前に飲んでいたのを飲み続けるのが実は一番良かった。

精神疾患の薬物治療では良くある話しです。効果が出るまではじっくり待つということを頭では分かっていても、実際に体験すると想像を絶する苦しさでした。

私は幸い改善しましたが、薬が合わず年単位で待たないといけない方も多いのです。この苦しさを理解することなく、待つ必要があると無責任に説明していた自分を反省しました。

「自分だって苦しすぎて待てなかったのに、簡単に待てと言えるものではない。ただ、待てなかった結果回復が遅れた経験もしたからこそ、待つことの大切さは実感を込めて伝えないといけない。」そう理解しました。

とはいっても、順調に回復したわけではありません。2012年1月頃までは眠れなくなったり、だるさや不安、焦りが強くなったりと不安定でした。患者さんが徐々に増えていましたが、「やっぱり仕事を続けるのは無理かも。」「生き続ける自信がない。」そう思うことも度々ありました。

そんな中ですが、2011年11月になって一つの目標を私は立てました。

2011年2月に目標にしていたけど出られなかった、「別府大分毎日マラソン」に2012年2月に参加することでした。この大会は誰でも出られるのではないのですが、2年以内に3時間を切ってフルマラソンを完走している人は申し込むと無条件に参加出来ました。

うつ病が再発する前に出した2時間57分のタイムが、2012年2月の大会の参加資格を満たしていることに気付いたのです。

大会に参加するなどと到底考えられないような練習量でしたが、私は参加を決めて申し込みました。完走しようとか、タイムを出したいとかは考えられませんでした。ただ、「子供の頃からすごい選手が出ているのをテレビで観ていた大会に私も参加出来るチャンスはこれが最後なので、記念に参加したい。スタートさえ出来たら、後はどうなっても良い。」そんな気持ちでした。

2012年1月には3kmの大会に参加しました。2010年夏頃よりも1分30秒以上遅いタイムでしたが、とにかく大会に復帰出来たことが嬉しくてタイムの悪さは気にしませんでした。

そして迎えた2月の別府大分毎日マラソン。最後尾をのんびり走る予定でしたが、「練習不足でどうせ途中で潰れるのだから、2時間55分くらいのペースで走ってみよう。」と直前に心変わりしました。

20km過ぎから苦しくなって、30km以降は体の自由が利かず歩きたくなりましたが、それでも大会に参加している喜びが勝りました。テレビに映るような位置ではないのですが、テレビで観ていた大会を自分が走っている。そんな高揚感がありました。また、最後は体が動かず苦しくなりましたが、それでも「頑張れば3時間を切れる。」という思いが体を動かしてくれました。2時間59分と、ギリギリですが3時間を切り、当時の練習内容からすると充分すぎる結果でした。

この結果により、最初で最後の別府大分毎日マラソンのはずが、翌年以降も連続して参加することになるのですが。

4回目のうつ病悪化

2010年11月末になって、突然眠れなくなりました。それまではいくら寝ても疲れが取れない状態だったのに、今度は一睡も出来ません。

12月頭にフルマラソンの大会に出る予定だったので、最初は「もしかしてまた中学生の時みたいに緊張しすぎているのかな?大会が終われば落ち着くだろう。」と思っていました。

ただ、練習の一環として走るつもりの大会でしたしそこまで緊張するはずがないのに、という違和感もありました。吐き気や食欲低下もありましたが、走れないほどではないため大会に出場しました。眠れない、食欲もない状態でしたから最初から体が動かず、3時間11分かかって何とか完走しました。

大会が終わって眠れるようになる、と思っていたのですが、その後も眠れない日が続きます。全身の異様な筋肉痛が続き、何日経っても回復しません。食欲低下や吐き気も続き、全身倦怠感が強くなりました。

診療をしても上の空で、話しが頭に入ってこず、頭が働いていません。夜は横になっても一睡も出来ず、少し寝ても悪夢で目が覚め、体が常に緊張している状態でした。

12月中旬からは仕事に行けず、家で寝ているしか出来ませんでした。少し前までは長い時間走っていたのに、走ることなど到底出来ません。2011年2月に、「別府大分毎日マラソン」というテレビでも放映される大会に初参加する予定で、それを目標に練習をしてきました。しかし、それどころではなくなりました。

走るどころか、家から外に出ること、入浴すること、着替えることさえもとても困難な作業になりました。冬場とはいえ汗もかきます。着替えず入浴もしないと不潔であると分かっているのに、体が動きません。

「とにかく眠りたい。」と自宅近くの病院を受診し、睡眠薬と抗不安薬を処方されました。「これで眠れる。」と思ったのですが、薬が全く効かず眠れません。

栃木県の職場までどうにか出勤して、医師に相談しました。そこで睡眠薬等を処方されたのですが、それでも眠れません。

食事は摂れないし、気分も落ち込んで生きているのがつらくなりました。さらには薬の副作用にも苦しみました。

「アカシジア」と呼ばれる副作用があるのですが、この副作用が出ると体がムズムズしてじっとしていられなくなります。ただでさえ死にたい気持ちがあるところにアカシジアが加わってソワソワと落ち着かず、自殺をして楽になりたいと考えました。

自分の持ち物のうち大事なものは人にあげる、捨てるなどして処分をしました。処分をしている時だけはなぜか気持ちが晴れやかで、スムーズに動くことが出来ました。

何度も自殺のタイミングを計り、「今がチャンスだ!」と動きましたが、あと一歩が踏み出せません。

薬を変えることでアカシジアは消えましたが、眠れず食欲もなく、気分は沈んで倦怠感も強く、死にたい気持ちが強い状況は続きました。

どうにか仕事には行き、時々入ってくる開業の打ち合わせにもどうにか顔を出していました。しかし、改善する希望は持てず、いつ自殺してもおかしくない状況でした。

2011年1月末からは再び仕事を休みました。「4月1日から開業予定なのに、絶対無理だよ。」そう思いましたが、別に周りの方々が動いて下さり、着々と準備は進みます。整わないのは私の調子のみでした。

それでも2月に入ると、薬を服用していて眠れて食欲もあって調子が良い日が数日続くこともありました。その時には、「今度こそ治るのではないか!」と少し明るい気持ちになりました。しかし、その後に再び全く眠れず気分は落ち込みます。

「良くなるかも。」と期待しただけに反動は大きく、もう治らないのではと絶望しました。

その度に医師に訴えて薬を変更していました。本来は抗うつ薬の効果というものは時間をかけてゆっくりと出てくるので、やたらと変更すると効果があるかないか判断出来ず、結果的に回復が遅れることが多いと分かっていても、つらい状態を1日たりとも耐えることが苦しくて待てませんでした。

依然として病状が落ち着かない最中、2011年3月11日には東日本大震災が発生しました。

「多くの方が被災して亡くなった。生きるべき人が亡くなって、何で自分みたいな役に立たない人間が生きているんだ。情けない。」そう思って自分を責めていました。眠れず体が怠く、食欲がない状態は続きました。1日たりとも生きている自信がない、そんな状態でした。

電車の間引き運転や計画停電などもあり、開業も延期した方が良いのではないかという話しが出ましたが、何をどうして良いのか決断出来ないまま、2011年4月1日に北本心ノ診療所を開院しました。

ランニング再開、母の死、開業準備と大きく動いた2年間

2009年4月から栃木県の病院に転勤しましたが、その病院は駅から離れた4kmほど場所にありました。非常勤医として週1回勤務していた頃は、他の先生のご厚意に甘えて駅まで車で送って頂いていました。しかし、毎日というのはさすがに申し訳ない。そう思った時に、「片道4kmなら、着替えを背負っても走って往復出来るんじゃないか?」と思い立ちました。

ランニング雑誌などで「通勤ラン」という言葉を目にしたこともあり、私も取り入れてみようと試してみました。

着替えを入れた重い荷物を背負い、自宅から最寄り駅までも走ったので、往復12~13kmを走りました。

大学を卒業してから6年間、あまり走れていない時期が続いたので体力は落ちており、ゆっくり走っていても最初はかなり疲れました。

それでも毎日続けていると、徐々に走れるようになってきました。余力が出来ると、ちょっとペースを上げてみたり、電車の時間を計算して遠回りして多く走ってみたり、通勤しながら負荷の高い練習をして、走力が戻って来るのを実感しました。

業務自体も前の病院時代より軽くなり、毎月のように大きく体調を崩すことはなくなりました。体重は55~57kgくらいで変わりませんでしたが、筋肉がついて脂肪が落ちたためで一時の病的な状態からは脱していました。しかし、胃の不調は続き、食欲にはムラがありました。また、胃の不調と共に時々異様な倦怠感に襲われ、いくら寝ても疲れが取れないと自覚する日も増えていました。

2010年からフルマラソンの大会に参加するようになり、2月の大会では低体温で途中棄権をしましたが5月の大会では2時間57分で走ることが出来ました。しかし、私の兄が遙かに速くフルマラソンを走っていることもあってこの記録には全く満足出来ず、「もっと練習しないとダメだ。こんなタイムでは話しにならない。」と自分を追い込むばかりでした。

中距離(1500m)が中心だった大学時代と比べて、走行距離ははるかに多くなりました。

前の即場よりも業務が軽いと言っても毎週当直はありますし、通常業務の合間を縫って開業準備もしていたので忙しい生活ではありました。

また、この間には大きな出来事がありました。2010年3月に、闘病生活を送っていた母親が亡くなったのです。

実家とは絶縁状態が続きましたが、2010年に入ってからは両親と少し電話で話すことが出来るようになっていました。お互いによそよそしくぎこちない会話で、短時間しか続きませんでしたが、それでも話せるようになったのは大きな進歩でした。

しかし、2010年3月に入ってからは母親が会話を出来ない状態となり、自宅で父親が介護をしている状況だと兄から聞きました。

父親に実家に行って良いか確認して、久々に実家を訪れました。母親は意識が混濁して会話が出来ず、時折うわごとのように言葉を発していました。

「久しぶりに会えたのに、もう2度と話すことは出来ない。自分が反抗して意地を張ったからだ。」と自分を責めました。ずっと滞在していたかったのですが、長時間私と一緒にいることで父親の病状が悪くなるのではないかという不安もありました。普通に会話はしているもののどこか緊張感がありました。長く滞在すれば、せっかく落ち着いている父親が私のせいで悪くなってしまうかもと考えて、1泊だけで自宅に戻りました。

しかし、自宅に戻った夜に兄から電話がありました。「父親から電話があったけど、いよいよ母親が危ないらしい。明日一緒に実家に行こう。」

翌朝、再度実家に向かいました。今度は兄達も一緒なので父親の調子が崩れる心配は少ない、と安心感がありました。

前夜の電話の様子では朝までもたないかも、と感じていましたが、私たちが実家に着く昼過ぎまで母親は生きていました。そして、私たちが到着するのを待っていたかのように息を引き取りました。

結局、関係を完全には修復することなく、親孝行らしいことは出来ませんでした。母親が亡くなる前に俳句を詠んでおり、亡くなってから母親の句集を父親がまとめてくれました。その句を見ると、私と絶縁状態になっても母親が私のことを気にかけてくれていることが痛いほど分かりました。

それなのに私は、母親の気持ちを分からず、ただ反発して、関係を断って、感謝の気持ちを伝えることもなく終わってしまったことを強く後悔しました。かといって何も取り戻すことは出来ません。

母の葬儀が終わると、また日常に戻ります。相変わらず胃の不調は続き、時折異様な倦怠感に襲われ、疲れが取れない日はありますが、開業の準備をして、ランニングも続けて、比較的平穏な日々が続いているかのように感じていました。

しかし、平穏な日々は突如乱れました。

母親の病気と実家との距離

研修医1年目の時に、母親がガンを発症しました。

兄からの電話でそれを知った私は、実家に電話をしました。

両親と大げんかして疎遠になったとはいえ、心配をした私は「休みを取って実家に戻るよ。」と電話に出た母親に話しました。

しかし、母親は「いや、忙しいやろうから無理しないで良いよ。」と繰り返すのみです。

確かに忙しい生活ではありますが、職場に事情を話して申請をすれば数日休むことは可能でした。休みは絶対に取れるから、日帰りでも顔を出すと告げる私に、母親はようやく事実を話しました。

「実はお父さんが・・・」

父親は私との電話での口論を機に精神的に不調となり通院をしていること、私の話しをするだけで不安定となり、と会うことにより病状が大きく悪化する可能性が高いことを知りました。

私は、実家に行くとはそれ以上言えませんでした。

「私のせいで、父親を傷つけてしまった。その結果、母親が病気になって手術を受けるというのに、近寄ることも出来なくなった。」

自分を責めましたが、どうしようもありません。母親はその後も癌の再発と手術を繰り返していました。しかし、私は時々兄から両親の様子を聞くことしか出来ませんでした。

実家のことを気にしつつも、精神科医としての生活は変わらず続きます。

栃木県内での2年間の研修医生活を終えて、2005年6月から埼玉県内の病院で働き出しました。

研修医が終わっても、頼まれた仕事は大体何でも引き受けようという気持ちは持ち続けていました。

「どうせ何をやってもダメなんだから、せめて人よりきついことだけは積極的に引き受けなきゃ。」その考えは持ち続けました。

その結果、医師4年目の夏頃から私は徐々に不調を自覚するようになりました。

右目の横が勝手にけいれんし、目を閉じてしまうようになりました。いつの間にか治ったのですが、今度は胃の不調や胸の痛みが頻繁に出現し、食欲が落ちました。

研修医が終わったあたりから、体重が増え続けることに危機を感じて時々走っていたのですが、毎月のように胃腸炎でダウンしたり、風邪を引いてしまい、継続して走ることが出来ませんでした。数ヶ月全く走らないこともありました。しかし、運動はしていないにも関わらず70kg近くまで増えていた体重は段々減り、気付けば60kgを切っていました。睡眠の質も明らかに低下しました。

埼玉県内の病院では4年間働きましたが、体調不良で苦しんだばかりではなく、精神科医としての具体的な方向性が決まった時期でもありました。

栃木県、埼玉県で働いてみて、地域の精神科医療の流れを考えた時に、その最初の窓口である開業医がしっかり機能しないと、その地域はうまく回らないと感じました。ならば、「精神科開業医がいない地域で精神科クリニックを開業して、その地域の窓口としてしっかり役割を果たしたい。」これが私の開業を志す理由となりました。大学を卒業する時には、漠然とした考えで開業医になりたいと言い、両親と衝突しました。ここに来て、開業をしたいはっきりした理由を決めることが出来ました。

また、数は少ないのですがスポーツ選手の診療をする機会も時々ありました。部活動としてやっている学生、社会人、さらにはプロとして競技をしている選手がいましたが、その多くは精神的な不調に陥ったことを周囲から理解されず、我慢して悪化してようやく病院を訪れていました。また勇気を振り絞って病院を受診しても「病気じゃないから。」と医師に相手にされなかったり、「競技を辞めたら良いだけ。」とスポーツを辞めることの重さを理解されなかったりして苦しんでいました。

私が中学1年生の時に、「病気じゃない。」「皆乗り越えているんだから。」と言われた時と何も変わっていないんだなと実感しました。

開業をしたら、スポーツ選手の診療にも力を入れたいと思うようにもなりました。

4年間埼玉県内で勤務した後は、2009年4月から2年間栃木県内の病院で働きました。埼玉県内で開業場所を探しておおよその場所は決めていたのですが、あまりに忙しくなりすぎて開業準備のための時間が取れませんでした。そこで、研修医時代からずっと非常勤で働いている栃木県内の病院に相談し、そこで常勤医として勤務しながら、開業準備をすることにしました。このような我が儘を言う私を受け入れて頂いたことは感謝してもしきれません。

栃木に転勤したことが、ランニングを本格的に再開するきっかけにもなりました。

両親との衝突と共に始まった研修医生活

無事大学を卒業して、医師国家試験にも受かって表向きは順調に研修医生活をスタートさせたのですが、実家との間で衝突がありました。

国家試験が終わった後、実家の母親から電話が来ました。そこで今後の話しをしていたのですが、「将来は開業したいな。」という私の考えを伝えました。

開業についての明確なビジョンがあったのではありません。大学で勉強に充分身が入らない状態が続き、卒業して研究をやっていくだけの能力はない、私の勉強のピークは大学受験までだと何となく感じていました。そして、精神科医になりたいと考えた時に、小さなクリニックで人知れず働き、患者さんの話をじっくりと聞いている私の姿しか思い描けませんでした。

しかし、「開業したい。」という私の言葉を聞いた両親は烈火のごとく怒り出しました。2人で交互に電話口に出て、「開業なんか医者のクズがやることや!」「そんな落ちこぼれた生活をするのか!」と激しい口調で罵ります。

一旦電話を切ってもまた両親からかかってきて、「お前の友達の○○君のお母さん(医師として働いている方です)が、『開業なんか』ってお前のことをバカにしとるぞ。」と他人の名前を出して私を貶しました。

「研究者として、教授を目指して生きていくのが正しい道や!」「お前のことなんか、今まで1回も信用したことない!」などと延々罵声は続きました。

なぜそこまで言われないといけないのか理解出来ず、「落ちこぼれで何が悪い!」「教授?そんなもの目指したいと思ったことなんかない。」「信用したことないのなら一生そのままで結構!」と私も激しい口調になって言い返しました。

結局衝突したままどちらも歩み寄ることなく、電話は終わりました。

この時から両親とは疎遠になりました。そのことで後に私は悔やむことになりました。

今になってみると、両親がなぜこのような言葉を投げかけてきたのか、理解できる部分が多くあります。父親は文系学部なので専門は私と異なりますが、東京大学を志望したものの受験に失敗しました。結局東京大学には進学出来ず、その挫折を胸に大学で勉強に励み、大学院を出て研究者として生きて大学教授になりました。

私が勉強で全国1位になり、東京大学に現役で合格して、父親は私に夢を託して大いに期待したことでしょう。東京大学を出て研究者として大成してくれると信じていたようです。

私が心を閉ざして本音を話していない、距離を置いていることは当然気づいていたでしょう。それを上回る期待をかけていて、実現してくれると信じていた子どもが、その期待に反して、「開業したい。」と言った。さらには、一番価値があると考えている教授という肩書きを否定した。それが大きな裏切りや侮辱と感じて、ショックが大きく許せなかったのかなと推測しています。

その考えを受け入れるかどうかは別として、今なら言葉の背景を理解出来るようにはなりました。

そんな衝突はありましたが、精神科医としての生活が始まりました。すぐに栃木に転勤になりましたが、早い段階から栃木県内の複数の病院で当直業務を行い、終わると休みなく大学病院で勤務して、という予想通りの忙しい生活でした。1ヶ月のうち半分の15日以上は当直をして病院に泊まり、生活リズムは不規則になりました。

大学を卒業すると同時に結婚もして翌年には子どもが誕生し、私生活でもめまぐるしい変化がありました。

ランニングを含めて一切の運動をやめたので、大学時代に55kgから増えなかった体重は1年後には67kgになりました。

研修医1年目から多くの仕事を任されて、精神科医としては大きく成長することができました。きついと感じることはもちろんありましたが、「どうせダメなんだから、せめて人よりきついことだけは積極的に引き受けなきゃ。」そう自分に言い聞かせていました。きついことが嫌ではなく、きつければきついほど自分が生きている実感を得ることが出来ました。

また、頼まれた仕事は大体何でも引き受けていました。

「何をやってもダメな私を選んでわざわざ頼ってくれているのだから、断るのは失礼だ。」「断った瞬間に、こいつはやっぱりダメだと見放されてしまう。」

そう考えて、きついことはドンドン引き受けることを意識しました。

患者さんには、「無理のしすぎですから、少し休みましょう。休むことは悪いことではなく、元気になって働くために必要なことです。」と言いながら、「でもダメな奴である私には休む権利はない。」と自分自身は無理を重ねました。

大学時代に「もう吐いて食べられなくなったり眠れなくなる状態からは生まれ変わった。」と過信したことも無理に拍車をかけました。

このまま突っ走ると壊れてしまうなという自覚はありましたが、「壊れたら所詮はその程度の人間でしかないということ。」と意に介しませんでした。

精神科医になったわけ

中学時代から吐き気、倦怠感や不眠に苦しみましたが、病院に行っても「それくらい乗り越えないと。」と言われて、いったい自分の不調がなぜなのかを知りたいと思ったことが医師を志したきっかけでした。

高校時代に漠然と思っていたのが、「スポーツドクターになったら分かるかも。」ということでした。漠然としていたので、スポーツドクターって何?と言われても、「スポーツ選手を診る医者」としか答えられません。

大学に入ってから精神科に通院したのですが、それが自分の目指す道とはピンと来ていませんでした。大学5年生の途中までは漠然とですが、「スポーツ選手を一番診るのは整形外科だから、整形外科医が良いな。」と考えていました。

しかし、当たり前ですが整形外科医がスポーツ選手だけを見ているのではありません。整形外科で診る疾患はもっと幅広く、スポーツ整形といわれる分野はその中のごく一部です。

6年生になって実習カリキュラムの中で整形外科を1ヶ月間回ったのですが、自分の不調の原因とはどうしても結びつきそうもない、そして自分が整形外科医としてやっていく姿がどうしてもイメージ出来ませんでした。

もっと積極的に進路を考えて活動すべきなのですが、ある体験を機に私は「私なんかがどこに行っても迷惑なんだろう。」と消極的になっていました。

大学5年生になって最初に回った科でのことです。1週間という短い期間でしたが、その科の勉強をしっかりして、協力して頂ける患者さんとも時間をかけて接し、朝から遅い時間まで自分で言うのも変ですが熱心に取り組みました。

受け持った患者さんについてのレポートを私なりに一生懸命作成し、その科の医師全員が集まる場で発表を行いました。しかし、そこで教授に言われたことは、「これ、研修医のサマリーをうつしただけだろう?そんなの実習とは言わない!」という厳しい内容でした。

研修医のサマリーをうつしたのではなく、自分で一から作成したレポートだったのですが黙ってしまいました。そして、「自分は何をやってもダメなんだ。ダメだから、自分で作成したとも思ってもらえないのだ。」と考えて何も言えず、黙ってしまいました。

患者さんの命に関わる仕事ですから、安易な気持ちで実習するなという気持ちで厳しく学生に接するのは今では理解もできます。また、それくらいで黙らずに、自分で頑張って作成したのだったらちゃんとそう言い返せば良かったのかもしれません。

しかし、その時の私は大人数の前で否定されたことの恥ずかしさ、情けなさばかりが頭の中を占めていました。

そして、それ以降の実習では消極的になり、「どうせ自分なんかがこの科に行っても邪魔だろうな。」という考えばかりで、自分の進路を決められずにいました。

その程度のことで・・・?と思われるでしょうが、自己評価が低く周囲の目を過剰に気にする私には、とてつもなく大きな出来事のように感じてしまいました。

そんな煮え切らない状態の私でしたが、精神科を回った時に大きな衝撃を受けました。

どの科でも患者さんの「現病歴」といって病気になるまでの経緯や受診までの経過を聞き取るのですが、精神科の現病歴は聞き取る量が違いました。兄弟の人数、親の職業、生い立ち、性格など細かに聞いた内容が記載されていました。患者さんの全てを理解した上で治療開始をしている。そういう印象を受けました。

また、同じ診断名がついていても治療方法が全然違うことも衝撃でした。治療薬が異なるだけでなく、ある患者さんには「ゆっくり休んで下さい。」と休養を勧めて、ある患者さんには「起きて作業療法をやってみましょう。寝てばかりでは回復が遅れます。」と外との交流を勧める。他の科の医師の中には、精神科医のことを馬鹿にする医師もいました。「あいつら(=精神科医)を見ていると、どっちが患者か分からないよ。」「あんなの医者じゃないよ。誰でも出来ることしかやっていない。」という言葉を耳にしたこともあります。

しかし、これだけ患者さんの話しを丁寧に聞いて患者さんの全体を理解し、治療方針を決めていくのは誰でも出来ることではない、と私には思えました。

同じような治療を私も出来るようになりたいという思いが強くなり、精神科医を志しました。

前回話した通り、睡眠は不安定ながら吐き気や食欲低下は落ち着いて、走れるようになっていたので、私の中学時代の不調の原因が何かを調べたいという気持ちはなくなっていました。

6年生の夏になって進路が決まってからは、出遅れましたが徐々に勉強に身が入るようにもなり、試験での成績も徐々に上がりました。

そして無事に大学を卒業し、医師国家試験にも合格し、2003年4月から精神科医としての生活が始まりました。

しかし、その直前に私と両親との間で大きな衝突が起きました。