唯一の心の支えを失った中学時代

低すぎる自己評価だけではなく、長距離選手として生まれ変わることが出来るという期待も抱いて中学生になりました。

そして中学では陸上部に入部。部内選考で選手に選ばれ、1年生の5月に初めての大会出場(1500m)が決まりました。

「ついに新たな人生の一歩を踏み出せる。」というワクワクし、早く試合の日が来ないか楽しみにしてついに迎えた試合当日。

競技場についた私は、これまで経験したことのない感覚に襲われました。

「怖い。ふるえが止まらない。お腹が痛い。吐きそう。」

ランニングは楽しいし、走れば褒めてもらえる。全力で走ることは苦しいけど、私には唯一の心の支えのはずでした。あれだけ楽しみにしていた陸上人生の始まりのはずが、経験したことのない状態になって私はどうして良いのか分からなくなりました。

分からないままですが、スタートの時間が来ました。スタート地点に30人以上が並び、その圧迫感のある状況に吐き気と恐怖がさらに増しました。

ピストルが鳴って一斉にスタートして、全員がものすごいペースで飛び出します。「え?このペースで1500mも走るの?」と頭の中は混乱しました。400mまでは最下位でしたが、吐き気と恐怖に耐えながらそこから順位を上げて行きました。

「やばい。追い上げなきゃ!」と思った所までは覚えていますが、そこからの記憶は断片的です。

気付いたらコース上でうずくまって吐いていました。

「何が起きてるの?」「でもまだ試合中だから走らないと。」と混乱したまま走り出しましたが、再びうずくまって吐き、完全に戦意を喪失しました。

監督だったのか、父親だったのか忘れましたが、コース外からの「もう止めろ!」というジェスチャーに反応してフラフラとコースアウトしました。なぜこのようなことになったのか全く理解出来ず、泣くしか出来ませんでした。

陸上選手として華々しくスタートするどころか、全員が注目している場所で吐いて恥をさらしてしまった。暗い気持ちで家に帰りました。家族で夕食を摂りましたが、誰も大会のことを話題にしませんでした。

その後、走ろうとすると自分がうずくまって吐いた光景が頭に浮かび、足がすくみました。すくむ足をどうにか動かして走り出しても、少し息が乱れると吐きそうになって立ち止まってしまいました。

楽しかったはずのランニングは吐き気を誘発する怖いものでしかなくなりました。症状はいつまで経っても改善しないどころか、走る時だけに出ていた吐き気が、食事をする時、バスや電車に乗る時、授業中といったように、日常生活の中でも出るようになりました。

やがて横になると吐きそうで息苦しくなり、夜も眠れなくなりました。

父親からは「何や、情けない!」「陸上なんか辞めい!」と怖い顔で叱責されましたが、それでも治りません。「他に何もやってもダメで、自分の心の支えだったランニングでもダメなのか。こんな人間は死ななきゃダメだな。」と自分を強く責めました。

1度病院を受診したこともあります。しかし、数分話しをしたところで医師から言われた言葉に絶望的な気分になりました。

「スポーツやりたいんでしょ?みんな乗り越えているんだから、君もそれくらい乗り越えなきゃ。病気じゃないんだから!」

どうやったら乗り越えられるのか、その方法が分からないから苦しんでいるのですが、それ以上何かを言う気力はありませんでした。

「分からない自分はやっぱりダメなんだ。こんなに苦しいけど、苦しむ自分が情けないんだな。だったらもう病院にも親にも、誰にも言わない。」そう強く認識しました。

結局、陸上部に在籍した中学3年間は走ろうとすると吐き気がつきまとい、力を発揮することは出来ませんでした。日常生活でも吐き気、食欲低下、不眠は続き、体のだるさがずっと抜けませんでした。練習には身が入らず、やる気のない部員と見られていました。そう見られることに対して「勝手にそう思ってくれ。」としか思えず、反発する気になれませんでした。

陸上選手になることだけが希望でしたから、それがなくなって何も目標はなくなりました。死のうと思って、家にあった市販の風邪薬を全部飲んだこともあります。しかし、そう簡単に死ねるものではなく、いつの間にか寝ていつの間にか起きて、吐き気と頭痛が強くなるだけで余計苦しくなりました。

それだけツラく死を願っているのに矛盾しているのですが、習慣的な勉強は続けていました。

通信教育の添削指導だけは毎月必ず出していました。勉強をしたいわけではありません。私が答案を書いて出すと、それに対して先生の添削とコメントが返ってきます。そのコメントが優しく温かく、顔も分からないけど優しく見守ってくれているという安心感がありました。絶望して死を強く意識していた私には、それが唯一の救いでした。添削とコメントを繰り返し見て、一人で泣いていました。

周りにいる誰にも心の内は明かす気持ちになれませんでした。もしかしたら受け止めてくれる人はいたのかもしれません。でも、「自分の悩みなんてどうせ大したことないと思われるだけ。話したら周りは軽蔑する。」そう決めつけていました。

強い孤独を感じている中で、通信教育でもらうコメントは人との唯一のふれあいとすら感じました。

もし「今の私」が、唯一の支えであったランニングに絶望してうつ状態になっている「中学生の私」に出会えたならどうしたでしょうか。

とにかく「中学生の私」の話しを否定せずに聞いて、つらい気持ちを受け止めることを繰り返すでしょう。「今の私」に話しをしている時間だけでも安心感を覚えてもらい、安心出来る場所を作ってもらうことを考えるでしょうね。

現実には、安心出来る場所を作ることは出来ず、治療を受けないまま、そして回復しないまま中学3年間を過ごしました。

中高一貫校なのでそのまま高校に進学するのですが、迷わず陸上部は退部しました。

陸上競技で活躍するという夢は消えましたが、「これで走らなくて良いんだ。」とホッとしただけでした。

食事の時に吐き気が出るので食事量は少なく、不眠も続くものの、陸上競技から離れると症状の程度は徐々に落ち着きました。

唯一の心の支えであったランニング

小学生の頃には自己評価が非常に低く、死ぬことも意識するようになっていたのですが、それでも生きることが出来たのは、「死ぬ勇気がない」というマイナスな理由だけでなくプラスの理由もありました。それがランニングとの出会いでした。

私の父親は学生時代に陸上競技をやっており、社会人になってからも趣味程度ではありますが走っており大会にも出ていました。普段はテレビを一切観ない家庭だったのですが、駅伝、マラソンなど陸上競技の試合がテレビ中継される時にはテレビがついていました。

テレビに映る選手達の姿を見て、小学生の私は「かっこいい!あんな風に走れるようになりたい。走るだけならこんな自分でも出来るのではないか。」と考えました。

選手達が実際にはものすごいペースで走っていることが理解出来ず、ゆっくり走っていると勘違いしたことで、自分でも出来るといっそう思い込んでしまいました。

さらに、長距離は背が低い選手の方が有利だ、と聞いたことも私の希望になりました。

兄は中学時代に陸上競技では県内上位の選手になっていました。

「背が高くて不利なはずの兄が強くなったんだ。背が低い自分はもっと強くなれる。」

私の背の低さが初めて生かされる時が来る、と私の思い込みは止まりません。家にいる兄の姿しか知らないので、「労せず速くなっている。」と勘違いしていました。

「ならば、精一杯努力したら自分は強くなれるかも。」

後から聞くと、兄は強くなるためにものすごい練習をして努力を重ねていたのですが、そんなことは知ろうともしませんでした。

現実の私は、短距離ではクラス内でも全く目立たない程度の走力でした。かつ私の走り方はクセがあり、走ると膝同士がぶつかるほどの内股でした。走り方が気持ち悪いと笑われることもあり、人前で走るのを恥ずかしがっていました。それでも、「長距離でなら見返せる。」と思い込みはなぜか揺らぎませんでした。

小学生時代にも大会に出たことがあり、そこでの走りを褒められたことも私には新鮮な体験でした。スタート前には、痩せて小さい私の姿を見て、「あいつになら勝てる。」と私を指さして笑う人達がいて辛かったのですが、そういう人達をスタートしたら置き去りにできるのも爽快でした。何をやってもダメなのに、走ることでは人に勝てる、褒めてもらえる。

自己評価が低く、死ぬことを考えている私の心の支えはいつしか、「中学に入ったら長距離選手として活躍し、今のダメな自分を一気に変えられる。」という強い思い込みだけでした。

勉強に関しては小学校高学年になると学校内では上位にいたと思います。それは本来大きな自信にして良いのですが、私はそう思えませんでした。

小学校で、スポーツをしている人は輪の中心にいて輝いていて、勉強しか出来ない人は隅っこで肩身の狭い思いをしている、そんなイメージを勝手に抱いていました。勉強はスポーツが出来ない人が仕方なくやるものと決めつけていたので、勉強が出来るというのは何の自信にもなりませんでした。

ただ、兄が中学受験をして県内で上位の進学校に進んだことを「走るだけじゃなくて勉強もすごい。」と周囲が評価しているのを聞いていたので、「スポーツが出来た上で勉強が出来ることは自信に出来るんだ。」という思いもありました。

私も中学受験を意識して勉強を始めましたが、勉強を頑張って将来それを生かしてどうしたいというのではなく、あくまでも長距離選手として活躍することが第一で、その上に自信を積み重ねるために勉強をする、という意識でした。今から思うと何を言っているのやら・・・と呆れてしまいますが、小学生の私にはそれが勉強を頑張る唯一の大きな理由でした。

とはいえ、中学受験をする理由を固めたのは小学6年生の夏です。それまでは、「お兄さんが受験しているから、自分もするんでしょ?」という雰囲気に流されて何となく「受験しようかな。」位にしか考えていませんでした。小学5年生の終わりに塾に通い出しましたが、レベルがあまりにも高すぎてついて行けず、片道1時間かけて通ってただ座っているだけでした。

そのような気の抜けた私の姿を見た両親は当然ですが激怒して、6年生の夏前には早くも退塾させられます。

そこで、本当に中学受験をしたいのか、なぜ中学受験したいのかを初めて自分で考えました。結果出てきた答えが、「長距離で活躍することに加えてさらに自信をつけるため」でした。

理由が決まってからの私は、塾に行けない分1人で集中して勉強しました。家に帰るととにかく家にこもって勉強漬け。走ることも一旦やめて家族ともあまり関わらず、過集中という状態になっていました。その結果、県内で一番の進学校に合格出来ました。「関西にはもっとレベルの高い学校もある。せっかく受験するなら、ダメ元でもっと上を目指したら。」という声もありましたが、それ以上はもう少しも頑張りたくない、という頑なな思いと、「自分なんかがそんな上を目指せるはずがない。」という思いがあって、さらに上を目指すことは出来ませんでした。

他の全てを捨て、一つのことに集中して自分を追い込む性質は高校時代にも発揮され、それが良い結果と悪い結果につながります。それはまた後ほど。

「今の私」が「小学生の私」に出会えるならば、「他のことが何も来なくても、周りにはもっと凄い人が沢山いても、学校内で勉強が出来るだけでもそれは素晴らしいことだよ。」と心から思い、「小学生の私」にそれを伝えます。「小学生の私」は「今の私」の話しをなかなか素直に聞けないと思います。

ただ、本人が認められないとしても、「今の私」ならそれを心から素晴らしいと思えるので、考えを無理に押しつけすぎないように気をつけつつ、折を見て繰り返し伝えていきます。

ランニングという唯一の支えを胸に中学に進学しましたが、入学後すぐにその支えは崩れました。

自己評価の低すぎた小学時代

幼稚園、小学校時代を振り返ると、とにかく人と関わることが苦手で、自分に自信がない子供でした。

3歳上に兄がいるのですが、兄は昔から背が高くて雰囲気は男らしく、社交的で勉強が出来て陸上競技でも県内の強化選手という、私からすると全てがうまくいって輝かしい人生を送っていました。私の周りでも兄のことをそう評価する人が多かったです。

一方の私は、今でこそ身長が高いといわれますが、当時は背が低く痩せていて、顔も女みたいだと馬鹿にされ、人前ではうまく話せずに泣いてしまい、運動は何をやっても不器用で、と自分は兄と対極の底辺にいると強く思い込んでいました。実際に、兄と私を比較して「お前の兄ちゃんすごいな!で、お前は何やってんの?」と言われることも度々あり、出来ない自分を責めていました。

そんな私でも勉強だけは出来る方だ、と自信を持ちかけたこともあったのですが、小学校の中では出来ても外部の模試を受けると私より遙かに勉強の出来る同学年の子が沢山いて、強い衝撃を受けると共に自信を失いました。「やっぱり何をやってもダメなんだ。」と落ち込んでいました。

両親に対しては常にビクビクしており、いつ罵倒されるか、いつ殴られるかと不安を抱えながら顔色を窺っていました。

両親からすれば、「怒鳴ったり殴ったりはしたけど、それ以上に愛情を注いでいた。」と納得出来ない気持ちでしょう。私にかけたのは否定的な言葉だけではなかったはずですが、否定的な言葉ばかりが当時の私の心には刻まれました。

私がテストで悪い成績を取った時、父親は怒鳴る、殴ることで私に反省を促しました。威圧的で強い恐怖を感じて、親の顔色を窺うようになりましたが、それと同じくらいつらかったのがその時の母親の様子でした。

私の成績を知ると母親は真っ青になり涙を流し、トイレに長時間こもって吐き続けていました。そしてそのまま寝込んでしまいました。

そんな母親の姿を見て私は、「とんでもないことをしてしまった。母親をこんな目に遭わせる自分は最低だ。罰を受けるべきだ。」と泣きながら自分を責めて殴っていました。

いつしか、「自分みたいなダメな奴は生きていても役に立たないどころか迷惑なだけ。早く死ななければいけない。」という思いが強くなっていました。

ただ、「死ぬのって怖いよな・・・。」という思いがあり実行は出来ませんでした。

私が小さな頃から自分に自信を持てないばかりか死を意識するようになった原因の一つは、周囲からのマイナス評価を全て重く受け止めていたことでした。そして、そのマイナス評価を覆すだけの自信や安心感を得る機会を作れなかったことでした。

これを、「親のせいで」「周りのせいで」と言って片付けてしまうのは簡単ですが、せっかくなのでどうすればこうならずに済んだのかを考えてみました。

親が怒鳴る、殴るというのは、「大体の家庭はそんなものだよ。」と思われた方も多いでしょうか。

当時は私の両親が常に否定的なことを言っているかのように感じていましたが、冷静に振り返ってみると、両親なりに私に愛情を注いでいたと感じる場面が多々あります。

しかし、それを子供の頃の私は感じ取ることが出来ず、否定的な言動に過敏に反応し、萎縮して自分を否定し続けました。

かといって、何をやっても否定せず受け止めるという対応が良かったとも思いません。「何をやっても許されるんだ。」と甘く考えて自分を律することが出来なくなってしまった可能性もあります。

もし「今の私」が、自信喪失し死にたい気持ちを抱えている「小学生の私」に接するとしたら。

自分に対しての否定的な思いを無理には修正しようとせず、「自分はダメだ、死ななきゃいけないと考えずにはいられないくらい、たくさん傷ついてきたんだね。苦しかったね。」と共感しながら、「小学生の私」がつらい気持ちを吐き出して落ち着くまで、時間をかけて話しを聞きます。話しを聞く中で、「小学生の私」が現状でも出来ていることはないか、出来るだけ多く探して見つけておきます。

1回で済むことではないですから、時間と回数を重ねていきます。聞く方にも相当の根気は必要ですが、これを面倒くさがってしまうと「小学生の私」は「自分の話しなんかやっぱり聞いてもらえないよね。」と心を閉ざし、自己評価は低いままです。

そうして「小学生の私」が私に少しずつ心を開いてくれたら、「でもそんなにダメだと思っている君でも、こんなに出来ていることがあるんだよ。」とゆっくりした口調で伝えます。その結果、「小学生の私」は認めてもらっているという安心感を得る機会を手にします。

さらには、「傷ついて苦しい今だけど、何だったら出来そう?例えば・・・。」と、これから出来そうなことを一緒に探して見つけていきます。

出来ることが見つかって、「小学生の私」がそれを達成出来たら、「すごい!出来ると思って、それを確実に出来たのは大したものだ。」と私は心から賞賛します。その結果、「小学生の私」は、自分でも出来ることがあるのだという自信を得る機会を手にします。

文字にすると簡単そうですが、これは私と「小学生の私」が充分に心を通い合わせていないと出来ないやり取りです。じっくりと時間をかけて話しを聞き、相手が心を開くまでじっくり根気よく待ち続ける姿勢が必要です。

自己評価が最低レベルで、死までも意識していた小学生時代の私ですが、そんな中でも唯一の希望がありました。

精神疾患ってどういうもの?

私たち精神科医の仕事は精神疾患の治療をすることですが、ではこの「精神疾患」とは何でしょうか?

精神疾患には私が治療を受けているうつ病の他に、双極性障害(躁うつ病)、統合失調症、パニック障害、認知症などがあります。

これらの精神疾患の存在に否定的な方々は、「気のせいでしょ?」「病気だって言ったもの勝ちだよね?」「甘えているだけでしょ?」といまだに考えているようですが、気にしなかったり甘えを捨て去れば治るものではもちろんありません。

また、「医師が製薬会社と結託して薬を売るために病気を作っている。だから医師は治す気もない。」などと陰謀めいた話しをする人もいますが、私の知る限りの医師は精神疾患を意図的にねつ造したり、治さずに薬漬けにしようとは微塵も考えていません。簡単には治らないことや一人一人にかける診察時間の短さからそのように疑われてしまうことも多いので、私たち精神科医が反省すべき点でもありますね。

ただ、気のせいでも医師の陰謀でもないとは言っても、精神疾患についてはまだまだ分かっていないことが多いです。

現在有力な仮説として言われていることは、「脳の神経伝達物質の不具合」「脳内のBDNFの減少」です。

脳には1000億以上ともいわれる数多くの神経細胞が存在します。神経細胞と神経細胞の間を「神経伝達物質」というものが動いて、情報を神経細胞間で伝達します。セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどという名前を聞いたことがあるでしょうか?

これらは代表的な神経伝達物質で、セロトニンは気分の安定に関わり、ノルアドレナリンは集中力、意欲、興奮、ドーパミンは意欲、快楽などに関わります。

神経伝達物質の働きが悪くなるもしくは働きが過剰になりすぎることで、精神疾患を発症すると考えられています。

精神疾患の治療に出てくる薬は、これらの神経伝達物質の働きを調節するために使われます。

もう1つ大切なのが「BDNF」というもので、この名前はランニングと精神疾患の治療や予防のお話しで再度出てきます。

BDNFとは「脳由来神経栄養因子」のことです。これは神経細胞の肥料となるもので、神経細胞を新しく作ったり、神経細胞を発達させたり、神経細胞が傷つかないように保護する働きがあります。このBDNFの量が少なくなることも、精神疾患発症の原因と考えられています。

これらのことから分かるとおり、精神疾患は「精神」という言葉がついているものの実際には脳内の問題と考えられています。本人の気の持ちようだけでコントロールすることは出来ません。

では、どのようにして精神疾患は発症するのでしょうか。

これに関してもまだまだ分かっていないことが多いです。個人差があるため一概には言えませんが、発症のしやすさを元々持っていて、それに何かしらのストレスが一時的にもしくは慢性的に加わって、やがて発症するという形なのかなと考えています。

一卵性の双子が同じ環境で同じように育ってきても一人だけ精神疾患を発症するケースも少なからずあり、遺伝だけで決まる、環境だけで決まる、ストレス因子だけで決まる、ということはないようです。

これだけでは漠然とした話しばかりで理解しにくいと思うので、ここからは私自身を例に精神疾患の中でもうつ病を中心にお話しします。

既に話したように、私はうつ病を中学時代、高校時代、大学時代、社会人時代と計4回繰り返しています。

そう話すと、私の表向きの経歴を詳しく知っている方には一様に驚かれます。

「中学受験をして難関進学校に進み、高校時代は全国模試で総合1位を3回取って、東大理三に現役合格をして、国家試験に受かって医師になって自分のクリニックを開いて、マラソンもやっているのに。どこにうつ病になる要素があるの?」

確かに、この部分だけ切り取れば、何の悩みもなく生きてきたように感じられますよね。「それでうつになるって、ぜいたくな悩みじゃない?感じ悪い。」そう思われても仕方ないでしょう。

しかし、実際にはうつ病を繰り返して、失敗はしたものの自殺も試みました。今でもうつ病が完全に消え去ったのではなく、薬を飲んで、再発しないように気を付けながら生活しています。

そんな私が自分自身の体験を話すことで、うつ病患者さんが少しでも回復するヒントになり、まだうつ病発症予防のヒントになり、そしてうつ病患者さんの家族、友人が病気について理解しサポートするヒントになる、そう考えています。

次回からは私自身の性格や実際の症状について詳しく振り返っていきます。

もしあなたが「死にたい」という言葉を聴いたなら

心の運動療法家、岡本浩之です。

私は2003年から精神科医として働いていますが、精神科について以前より認知されるようになったと感じる一方で、まだまだ精神科が「得体のしれない怖い場所」「1度受診すると薬漬けの廃人にされる人体実験の場」というイメージを持たれていることも強く感じます。

この連載を通じて、医療の現場にいる私が積極的に伝えていくことで、皆さんにとって精神科がより身近になり、「風邪を引いたから内科に行ってきた。」と同じように、「悩みを抱えているからちょっと精神科に行ってきた。」という会話が自然にできる、そんな時代に近づけたいと思っています。

じつは私自身も中学時代からうつ病を4回繰り返しましたが、特に2回目(高校時代)と4回目(30歳頃)は死を強く意識し、実際に自殺を試みました。

無事?失敗したから今こうして生きているのですが、危うく命を落としかけました。

いきなり重い話題で恐縮ですが、精神科を受診する人の多く(私のところを受診する患者さんの場合では、その半数以上)が「死にたい。」という気持ちを抱えて精神科に訪れます。

当事者でない限りなぜ死を意識するのかは理解されにくいですし、勇気を出して周りの人に相談したけど理解されずによけいに孤立し死にたくなった、というケースも多いです。

周りの人間としても、「死にたいんだ。」と家族や友人から相談されてもどう答えたらいいのか困りますよね?

「死にたい」と思ったことのない人からすれば、「死ぬって言う人はどうせ口だけで死ねないよ。」と軽く見られることもありますが、自殺する方の多くは過去に既に自殺未遂をしていたり、死にたい気持ちを口にしています。

また、死にたいという人の話しの内容を最後まで聞かずに、途中で制して解決策を簡単に伝えたくなりますが、これは逆効果なのです。

命の大切さを話して必死に止めたくもなりますが、死にたい人は命を軽視しているわけではありません。命の大切さは理解しつつ、それを超えた苦しさがあるのです。その苦しさを受け止めるには、まず時間をかけて本人の話を聞く必要があります。

最後まで聞いてもらえない、解決策を簡単に言われてしまうことで、「自分の言うことを受け止めてもらえていない、理解はされないんだ。」と余計に落ち込んでしまいます。

解決策は本人が試行錯誤する中で時間をかけて見つけるものです。ただ、じっくり話しを聞き、「死にたいくらいつらい出来事があり、苦しんでいるんだ。」と理解して受け止めてくれる人が周囲にいると、死への強い衝動を緩和して、生に向き合うようにすることができます。

みなさんに覚えておいていただきたいこと、それは、もし「死にたい」という言葉に出会ったら、ただひたすら根気よく、辛抱強く、死にたいと言っている家族・友人・知人の言葉を聴く、ただただ耳を傾けることです。

「生きたくても生きられない人もいるのに、命を軽く見るな!」「俺だって死にたいと思うことくらいあるよ。それでも生きているんだ!」などとつい言いたくなりますが、それらの言葉は死にたいと思う人にはマイナスでしかありません。

さて、死にたいと思うくらい追い詰められた人に向き合い、回復のお手伝いをすることも精神科医の大事な役割ですが、そこまで重くなってしまうと回復に長い時間がかかります。

精神的に大きく調子を崩す前に出来ること、いわば予防の方法はないのか、それを提案することも精神科医の大事な役割だと私は考えています。

先ほど話したように、私自身がうつ病で死を強く意識するほど苦しみました。そしてそこから回復する中で、今後二度と調子を崩さないためにはどうしたら良いのかを考えました。

治療薬を服用することも大切ですが、それだけでは足りないと考えた結果、行きついたのが「ランニング」でした。

アスリートの方にもご協力いただいて様々な試行錯誤を重ねた結果、毎日60人以上の患者さんを診察し、フルマラソンや100kmマラソンを走っても調子を大きく崩さないようになりました。

次回からは、精神疾患とは何か、私がなぜうつ病になったのかを解説しながら、ランニングの効果についてお伝えしていきたいと思います。

スポーツとメンタルのつなぎ役に

スポーツとメンタルのつなぎ役に

ご無沙汰しております。心の運動療法家、岡本浩之です。

年末年始は格闘技、サッカー、駅伝、ラグビーなどスポーツ中継が多く放送され、観戦した方も多いでしょうか。

私もスポーツ観戦した後、一流選手になったつもりでランニングに出かけました。もちろん、選手の皆さんとは走るスピードもフォームも全然違いますが。

また、今年は東京オリンピック・パラリンピックが開催され、競技によっては既に代表選手が決まったり、これから代表選考会が開催されて盛り上がっていきそうですね。

スポーツを通じてのメンタルケアについての関心も徐々に高まりつつあるので、心の運動療法家としての活動も活発に行って参ります。

今までと同様に、スポーツをメンタルケアに活用すること、アスリートのメンタルケアという2つのことに取り組んで参ります。

今年も宜しくお願い致します。

しばらく更新が止まっておりましたが、折を見て更新して参ります!