4回目のうつ病悪化

2010年11月末になって、突然眠れなくなりました。それまではいくら寝ても疲れが取れない状態だったのに、今度は一睡も出来ません。

12月頭にフルマラソンの大会に出る予定だったので、最初は「もしかしてまた中学生の時みたいに緊張しすぎているのかな?大会が終われば落ち着くだろう。」と思っていました。

ただ、練習の一環として走るつもりの大会でしたしそこまで緊張するはずがないのに、という違和感もありました。吐き気や食欲低下もありましたが、走れないほどではないため大会に出場しました。眠れない、食欲もない状態でしたから最初から体が動かず、3時間11分かかって何とか完走しました。

大会が終わって眠れるようになる、と思っていたのですが、その後も眠れない日が続きます。全身の異様な筋肉痛が続き、何日経っても回復しません。食欲低下や吐き気も続き、全身倦怠感が強くなりました。

診療をしても上の空で、話しが頭に入ってこず、頭が働いていません。夜は横になっても一睡も出来ず、少し寝ても悪夢で目が覚め、体が常に緊張している状態でした。

12月中旬からは仕事に行けず、家で寝ているしか出来ませんでした。少し前までは長い時間走っていたのに、走ることなど到底出来ません。2011年2月に、「別府大分毎日マラソン」というテレビでも放映される大会に初参加する予定で、それを目標に練習をしてきました。しかし、それどころではなくなりました。

走るどころか、家から外に出ること、入浴すること、着替えることさえもとても困難な作業になりました。冬場とはいえ汗もかきます。着替えず入浴もしないと不潔であると分かっているのに、体が動きません。

「とにかく眠りたい。」と自宅近くの病院を受診し、睡眠薬と抗不安薬を処方されました。「これで眠れる。」と思ったのですが、薬が全く効かず眠れません。

栃木県の職場までどうにか出勤して、医師に相談しました。そこで睡眠薬等を処方されたのですが、それでも眠れません。

食事は摂れないし、気分も落ち込んで生きているのがつらくなりました。さらには薬の副作用にも苦しみました。

「アカシジア」と呼ばれる副作用があるのですが、この副作用が出ると体がムズムズしてじっとしていられなくなります。ただでさえ死にたい気持ちがあるところにアカシジアが加わってソワソワと落ち着かず、自殺をして楽になりたいと考えました。

自分の持ち物のうち大事なものは人にあげる、捨てるなどして処分をしました。処分をしている時だけはなぜか気持ちが晴れやかで、スムーズに動くことが出来ました。

何度も自殺のタイミングを計り、「今がチャンスだ!」と動きましたが、あと一歩が踏み出せません。

薬を変えることでアカシジアは消えましたが、眠れず食欲もなく、気分は沈んで倦怠感も強く、死にたい気持ちが強い状況は続きました。

どうにか仕事には行き、時々入ってくる開業の打ち合わせにもどうにか顔を出していました。しかし、改善する希望は持てず、いつ自殺してもおかしくない状況でした。

2011年1月末からは再び仕事を休みました。「4月1日から開業予定なのに、絶対無理だよ。」そう思いましたが、別に周りの方々が動いて下さり、着々と準備は進みます。整わないのは私の調子のみでした。

それでも2月に入ると、薬を服用していて眠れて食欲もあって調子が良い日が数日続くこともありました。その時には、「今度こそ治るのではないか!」と少し明るい気持ちになりました。しかし、その後に再び全く眠れず気分は落ち込みます。

「良くなるかも。」と期待しただけに反動は大きく、もう治らないのではと絶望しました。

その度に医師に訴えて薬を変更していました。本来は抗うつ薬の効果というものは時間をかけてゆっくりと出てくるので、やたらと変更すると効果があるかないか判断出来ず、結果的に回復が遅れることが多いと分かっていても、つらい状態を1日たりとも耐えることが苦しくて待てませんでした。

依然として病状が落ち着かない最中、2011年3月11日には東日本大震災が発生しました。

「多くの方が被災して亡くなった。生きるべき人が亡くなって、何で自分みたいな役に立たない人間が生きているんだ。情けない。」そう思って自分を責めていました。眠れず体が怠く、食欲がない状態は続きました。1日たりとも生きている自信がない、そんな状態でした。

電車の間引き運転や計画停電などもあり、開業も延期した方が良いのではないかという話しが出ましたが、何をどうして良いのか決断出来ないまま、2011年4月1日に北本心ノ診療所を開院しました。

ランニング再開、母の死、開業準備と大きく動いた2年間

2009年4月から栃木県の病院に転勤しましたが、その病院は駅から離れた4kmほど場所にありました。非常勤医として週1回勤務していた頃は、他の先生のご厚意に甘えて駅まで車で送って頂いていました。しかし、毎日というのはさすがに申し訳ない。そう思った時に、「片道4kmなら、着替えを背負っても走って往復出来るんじゃないか?」と思い立ちました。

ランニング雑誌などで「通勤ラン」という言葉を目にしたこともあり、私も取り入れてみようと試してみました。

着替えを入れた重い荷物を背負い、自宅から最寄り駅までも走ったので、往復12~13kmを走りました。

大学を卒業してから6年間、あまり走れていない時期が続いたので体力は落ちており、ゆっくり走っていても最初はかなり疲れました。

それでも毎日続けていると、徐々に走れるようになってきました。余力が出来ると、ちょっとペースを上げてみたり、電車の時間を計算して遠回りして多く走ってみたり、通勤しながら負荷の高い練習をして、走力が戻って来るのを実感しました。

業務自体も前の病院時代より軽くなり、毎月のように大きく体調を崩すことはなくなりました。体重は55~57kgくらいで変わりませんでしたが、筋肉がついて脂肪が落ちたためで一時の病的な状態からは脱していました。しかし、胃の不調は続き、食欲にはムラがありました。また、胃の不調と共に時々異様な倦怠感に襲われ、いくら寝ても疲れが取れないと自覚する日も増えていました。

2010年からフルマラソンの大会に参加するようになり、2月の大会では低体温で途中棄権をしましたが5月の大会では2時間57分で走ることが出来ました。しかし、私の兄が遙かに速くフルマラソンを走っていることもあってこの記録には全く満足出来ず、「もっと練習しないとダメだ。こんなタイムでは話しにならない。」と自分を追い込むばかりでした。

中距離(1500m)が中心だった大学時代と比べて、走行距離ははるかに多くなりました。

前の即場よりも業務が軽いと言っても毎週当直はありますし、通常業務の合間を縫って開業準備もしていたので忙しい生活ではありました。

また、この間には大きな出来事がありました。2010年3月に、闘病生活を送っていた母親が亡くなったのです。

実家とは絶縁状態が続きましたが、2010年に入ってからは両親と少し電話で話すことが出来るようになっていました。お互いによそよそしくぎこちない会話で、短時間しか続きませんでしたが、それでも話せるようになったのは大きな進歩でした。

しかし、2010年3月に入ってからは母親が会話を出来ない状態となり、自宅で父親が介護をしている状況だと兄から聞きました。

父親に実家に行って良いか確認して、久々に実家を訪れました。母親は意識が混濁して会話が出来ず、時折うわごとのように言葉を発していました。

「久しぶりに会えたのに、もう2度と話すことは出来ない。自分が反抗して意地を張ったからだ。」と自分を責めました。ずっと滞在していたかったのですが、長時間私と一緒にいることで父親の病状が悪くなるのではないかという不安もありました。普通に会話はしているもののどこか緊張感がありました。長く滞在すれば、せっかく落ち着いている父親が私のせいで悪くなってしまうかもと考えて、1泊だけで自宅に戻りました。

しかし、自宅に戻った夜に兄から電話がありました。「父親から電話があったけど、いよいよ母親が危ないらしい。明日一緒に実家に行こう。」

翌朝、再度実家に向かいました。今度は兄達も一緒なので父親の調子が崩れる心配は少ない、と安心感がありました。

前夜の電話の様子では朝までもたないかも、と感じていましたが、私たちが実家に着く昼過ぎまで母親は生きていました。そして、私たちが到着するのを待っていたかのように息を引き取りました。

結局、関係を完全には修復することなく、親孝行らしいことは出来ませんでした。母親が亡くなる前に俳句を詠んでおり、亡くなってから母親の句集を父親がまとめてくれました。その句を見ると、私と絶縁状態になっても母親が私のことを気にかけてくれていることが痛いほど分かりました。

それなのに私は、母親の気持ちを分からず、ただ反発して、関係を断って、感謝の気持ちを伝えることもなく終わってしまったことを強く後悔しました。かといって何も取り戻すことは出来ません。

母の葬儀が終わると、また日常に戻ります。相変わらず胃の不調は続き、時折異様な倦怠感に襲われ、疲れが取れない日はありますが、開業の準備をして、ランニングも続けて、比較的平穏な日々が続いているかのように感じていました。

しかし、平穏な日々は突如乱れました。

母親の病気と実家との距離

研修医1年目の時に、母親がガンを発症しました。

兄からの電話でそれを知った私は、実家に電話をしました。

両親と大げんかして疎遠になったとはいえ、心配をした私は「休みを取って実家に戻るよ。」と電話に出た母親に話しました。

しかし、母親は「いや、忙しいやろうから無理しないで良いよ。」と繰り返すのみです。

確かに忙しい生活ではありますが、職場に事情を話して申請をすれば数日休むことは可能でした。休みは絶対に取れるから、日帰りでも顔を出すと告げる私に、母親はようやく事実を話しました。

「実はお父さんが・・・」

父親は私との電話での口論を機に精神的に不調となり通院をしていること、私の話しをするだけで不安定となり、と会うことにより病状が大きく悪化する可能性が高いことを知りました。

私は、実家に行くとはそれ以上言えませんでした。

「私のせいで、父親を傷つけてしまった。その結果、母親が病気になって手術を受けるというのに、近寄ることも出来なくなった。」

自分を責めましたが、どうしようもありません。母親はその後も癌の再発と手術を繰り返していました。しかし、私は時々兄から両親の様子を聞くことしか出来ませんでした。

実家のことを気にしつつも、精神科医としての生活は変わらず続きます。

栃木県内での2年間の研修医生活を終えて、2005年6月から埼玉県内の病院で働き出しました。

研修医が終わっても、頼まれた仕事は大体何でも引き受けようという気持ちは持ち続けていました。

「どうせ何をやってもダメなんだから、せめて人よりきついことだけは積極的に引き受けなきゃ。」その考えは持ち続けました。

その結果、医師4年目の夏頃から私は徐々に不調を自覚するようになりました。

右目の横が勝手にけいれんし、目を閉じてしまうようになりました。いつの間にか治ったのですが、今度は胃の不調や胸の痛みが頻繁に出現し、食欲が落ちました。

研修医が終わったあたりから、体重が増え続けることに危機を感じて時々走っていたのですが、毎月のように胃腸炎でダウンしたり、風邪を引いてしまい、継続して走ることが出来ませんでした。数ヶ月全く走らないこともありました。しかし、運動はしていないにも関わらず70kg近くまで増えていた体重は段々減り、気付けば60kgを切っていました。睡眠の質も明らかに低下しました。

埼玉県内の病院では4年間働きましたが、体調不良で苦しんだばかりではなく、精神科医としての具体的な方向性が決まった時期でもありました。

栃木県、埼玉県で働いてみて、地域の精神科医療の流れを考えた時に、その最初の窓口である開業医がしっかり機能しないと、その地域はうまく回らないと感じました。ならば、「精神科開業医がいない地域で精神科クリニックを開業して、その地域の窓口としてしっかり役割を果たしたい。」これが私の開業を志す理由となりました。大学を卒業する時には、漠然とした考えで開業医になりたいと言い、両親と衝突しました。ここに来て、開業をしたいはっきりした理由を決めることが出来ました。

また、数は少ないのですがスポーツ選手の診療をする機会も時々ありました。部活動としてやっている学生、社会人、さらにはプロとして競技をしている選手がいましたが、その多くは精神的な不調に陥ったことを周囲から理解されず、我慢して悪化してようやく病院を訪れていました。また勇気を振り絞って病院を受診しても「病気じゃないから。」と医師に相手にされなかったり、「競技を辞めたら良いだけ。」とスポーツを辞めることの重さを理解されなかったりして苦しんでいました。

私が中学1年生の時に、「病気じゃない。」「皆乗り越えているんだから。」と言われた時と何も変わっていないんだなと実感しました。

開業をしたら、スポーツ選手の診療にも力を入れたいと思うようにもなりました。

4年間埼玉県内で勤務した後は、2009年4月から2年間栃木県内の病院で働きました。埼玉県内で開業場所を探しておおよその場所は決めていたのですが、あまりに忙しくなりすぎて開業準備のための時間が取れませんでした。そこで、研修医時代からずっと非常勤で働いている栃木県内の病院に相談し、そこで常勤医として勤務しながら、開業準備をすることにしました。このような我が儘を言う私を受け入れて頂いたことは感謝してもしきれません。

栃木に転勤したことが、ランニングを本格的に再開するきっかけにもなりました。

両親との衝突と共に始まった研修医生活

無事大学を卒業して、医師国家試験にも受かって表向きは順調に研修医生活をスタートさせたのですが、実家との間で衝突がありました。

国家試験が終わった後、実家の母親から電話が来ました。そこで今後の話しをしていたのですが、「将来は開業したいな。」という私の考えを伝えました。

開業についての明確なビジョンがあったのではありません。大学で勉強に充分身が入らない状態が続き、卒業して研究をやっていくだけの能力はない、私の勉強のピークは大学受験までだと何となく感じていました。そして、精神科医になりたいと考えた時に、小さなクリニックで人知れず働き、患者さんの話をじっくりと聞いている私の姿しか思い描けませんでした。

しかし、「開業したい。」という私の言葉を聞いた両親は烈火のごとく怒り出しました。2人で交互に電話口に出て、「開業なんか医者のクズがやることや!」「そんな落ちこぼれた生活をするのか!」と激しい口調で罵ります。

一旦電話を切ってもまた両親からかかってきて、「お前の友達の○○君のお母さん(医師として働いている方です)が、『開業なんか』ってお前のことをバカにしとるぞ。」と他人の名前を出して私を貶しました。

「研究者として、教授を目指して生きていくのが正しい道や!」「お前のことなんか、今まで1回も信用したことない!」などと延々罵声は続きました。

なぜそこまで言われないといけないのか理解出来ず、「落ちこぼれで何が悪い!」「教授?そんなもの目指したいと思ったことなんかない。」「信用したことないのなら一生そのままで結構!」と私も激しい口調になって言い返しました。

結局衝突したままどちらも歩み寄ることなく、電話は終わりました。

この時から両親とは疎遠になりました。そのことで後に私は悔やむことになりました。

今になってみると、両親がなぜこのような言葉を投げかけてきたのか、理解できる部分が多くあります。父親は文系学部なので専門は私と異なりますが、東京大学を志望したものの受験に失敗しました。結局東京大学には進学出来ず、その挫折を胸に大学で勉強に励み、大学院を出て研究者として生きて大学教授になりました。

私が勉強で全国1位になり、東京大学に現役で合格して、父親は私に夢を託して大いに期待したことでしょう。東京大学を出て研究者として大成してくれると信じていたようです。

私が心を閉ざして本音を話していない、距離を置いていることは当然気づいていたでしょう。それを上回る期待をかけていて、実現してくれると信じていた子どもが、その期待に反して、「開業したい。」と言った。さらには、一番価値があると考えている教授という肩書きを否定した。それが大きな裏切りや侮辱と感じて、ショックが大きく許せなかったのかなと推測しています。

その考えを受け入れるかどうかは別として、今なら言葉の背景を理解出来るようにはなりました。

そんな衝突はありましたが、精神科医としての生活が始まりました。すぐに栃木に転勤になりましたが、早い段階から栃木県内の複数の病院で当直業務を行い、終わると休みなく大学病院で勤務して、という予想通りの忙しい生活でした。1ヶ月のうち半分の15日以上は当直をして病院に泊まり、生活リズムは不規則になりました。

大学を卒業すると同時に結婚もして翌年には子どもが誕生し、私生活でもめまぐるしい変化がありました。

ランニングを含めて一切の運動をやめたので、大学時代に55kgから増えなかった体重は1年後には67kgになりました。

研修医1年目から多くの仕事を任されて、精神科医としては大きく成長することができました。きついと感じることはもちろんありましたが、「どうせダメなんだから、せめて人よりきついことだけは積極的に引き受けなきゃ。」そう自分に言い聞かせていました。きついことが嫌ではなく、きつければきついほど自分が生きている実感を得ることが出来ました。

また、頼まれた仕事は大体何でも引き受けていました。

「何をやってもダメな私を選んでわざわざ頼ってくれているのだから、断るのは失礼だ。」「断った瞬間に、こいつはやっぱりダメだと見放されてしまう。」

そう考えて、きついことはドンドン引き受けることを意識しました。

患者さんには、「無理のしすぎですから、少し休みましょう。休むことは悪いことではなく、元気になって働くために必要なことです。」と言いながら、「でもダメな奴である私には休む権利はない。」と自分自身は無理を重ねました。

大学時代に「もう吐いて食べられなくなったり眠れなくなる状態からは生まれ変わった。」と過信したことも無理に拍車をかけました。

このまま突っ走ると壊れてしまうなという自覚はありましたが、「壊れたら所詮はその程度の人間でしかないということ。」と意に介しませんでした。

精神科医になったわけ

中学時代から吐き気、倦怠感や不眠に苦しみましたが、病院に行っても「それくらい乗り越えないと。」と言われて、いったい自分の不調がなぜなのかを知りたいと思ったことが医師を志したきっかけでした。

高校時代に漠然と思っていたのが、「スポーツドクターになったら分かるかも。」ということでした。漠然としていたので、スポーツドクターって何?と言われても、「スポーツ選手を診る医者」としか答えられません。

大学に入ってから精神科に通院したのですが、それが自分の目指す道とはピンと来ていませんでした。大学5年生の途中までは漠然とですが、「スポーツ選手を一番診るのは整形外科だから、整形外科医が良いな。」と考えていました。

しかし、当たり前ですが整形外科医がスポーツ選手だけを見ているのではありません。整形外科で診る疾患はもっと幅広く、スポーツ整形といわれる分野はその中のごく一部です。

6年生になって実習カリキュラムの中で整形外科を1ヶ月間回ったのですが、自分の不調の原因とはどうしても結びつきそうもない、そして自分が整形外科医としてやっていく姿がどうしてもイメージ出来ませんでした。

もっと積極的に進路を考えて活動すべきなのですが、ある体験を機に私は「私なんかがどこに行っても迷惑なんだろう。」と消極的になっていました。

大学5年生になって最初に回った科でのことです。1週間という短い期間でしたが、その科の勉強をしっかりして、協力して頂ける患者さんとも時間をかけて接し、朝から遅い時間まで自分で言うのも変ですが熱心に取り組みました。

受け持った患者さんについてのレポートを私なりに一生懸命作成し、その科の医師全員が集まる場で発表を行いました。しかし、そこで教授に言われたことは、「これ、研修医のサマリーをうつしただけだろう?そんなの実習とは言わない!」という厳しい内容でした。

研修医のサマリーをうつしたのではなく、自分で一から作成したレポートだったのですが黙ってしまいました。そして、「自分は何をやってもダメなんだ。ダメだから、自分で作成したとも思ってもらえないのだ。」と考えて何も言えず、黙ってしまいました。

患者さんの命に関わる仕事ですから、安易な気持ちで実習するなという気持ちで厳しく学生に接するのは今では理解もできます。また、それくらいで黙らずに、自分で頑張って作成したのだったらちゃんとそう言い返せば良かったのかもしれません。

しかし、その時の私は大人数の前で否定されたことの恥ずかしさ、情けなさばかりが頭の中を占めていました。

そして、それ以降の実習では消極的になり、「どうせ自分なんかがこの科に行っても邪魔だろうな。」という考えばかりで、自分の進路を決められずにいました。

その程度のことで・・・?と思われるでしょうが、自己評価が低く周囲の目を過剰に気にする私には、とてつもなく大きな出来事のように感じてしまいました。

そんな煮え切らない状態の私でしたが、精神科を回った時に大きな衝撃を受けました。

どの科でも患者さんの「現病歴」といって病気になるまでの経緯や受診までの経過を聞き取るのですが、精神科の現病歴は聞き取る量が違いました。兄弟の人数、親の職業、生い立ち、性格など細かに聞いた内容が記載されていました。患者さんの全てを理解した上で治療開始をしている。そういう印象を受けました。

また、同じ診断名がついていても治療方法が全然違うことも衝撃でした。治療薬が異なるだけでなく、ある患者さんには「ゆっくり休んで下さい。」と休養を勧めて、ある患者さんには「起きて作業療法をやってみましょう。寝てばかりでは回復が遅れます。」と外との交流を勧める。他の科の医師の中には、精神科医のことを馬鹿にする医師もいました。「あいつら(=精神科医)を見ていると、どっちが患者か分からないよ。」「あんなの医者じゃないよ。誰でも出来ることしかやっていない。」という言葉を耳にしたこともあります。

しかし、これだけ患者さんの話しを丁寧に聞いて患者さんの全体を理解し、治療方針を決めていくのは誰でも出来ることではない、と私には思えました。

同じような治療を私も出来るようになりたいという思いが強くなり、精神科医を志しました。

前回話した通り、睡眠は不安定ながら吐き気や食欲低下は落ち着いて、走れるようになっていたので、私の中学時代の不調の原因が何かを調べたいという気持ちはなくなっていました。

6年生の夏になって進路が決まってからは、出遅れましたが徐々に勉強に身が入るようにもなり、試験での成績も徐々に上がりました。

そして無事に大学を卒業し、医師国家試験にも合格し、2003年4月から精神科医としての生活が始まりました。

しかし、その直前に私と両親との間で大きな衝突が起きました。

ランニングで得られた充実感と過信

医学部は大学生活が6年間あり、5年生、6年生は病院実習で忙しくなります。

部活を引退する同級生もいますが、私はようやく走れるようになってきたので陸上競技を続けました。

この頃には身長の伸びも完全に止まり182cmでした。体重は55kg前後で安定し、かなり細身であることには変わりないのですが大学に入った頃より筋肉が増えて、食事も比較的食べられるようになっていました。睡眠は安定せず、眠れない日の方がかなり多かったのですが、それでも眠気で生活に支障を来すまでの不眠ではありませんでした。

そうなると、これまでの私ならば過集中といえるほど陸上競技に打ち込んで、また心身の不調に陥るパターンが来るのですが、大学5,6年生の私はそうなりませんでした。

大学1年生の終わりにケガをした右太もも裏は結局完治せず、力が入りにくかったり、まっすぐに足が伸ばせない状態が続いていました。そのため体のバランスが崩れており、練習をすると別の箇所に痛みが強く出ました。「また大きなケガをしてしまったら怖い。」という恐怖心が強くて、限界を超えて完全に追い込みきるまでの練習を出来ませんでした。とはいってもそれなりには追い込んで練習しており、毎日足のどこかが痛いくて歩くのもぎこちない状態は苦痛で、陸上競技をやめる時に、「これで足が痛くても落ち込む必要がないんだ。」とホッとしましたが。

陸上競技選手としては全く結果が残せず歯がゆい思いはありましたが、小学生の頃のように陸上選手になる夢はなく、ただ途中棄権しないで完走出来るだけで毎回ホッとしている自分もいました。この時期に食事が摂れるようになったこと、練習や大会で吐かずに走りきることが出来るようになったことは私には少しですが支えになりました。

また、この時期は他大学の選手達と一緒に練習をして、一緒に遊びにも行ったり、陸上競技を通じて外との交流を多く持つことができた時期でもありました。私から積極的に声をかけるというよりも、周りの選手達が私に興味を持って声をかけてくれ、私を他の選手に紹介してくれて、という受け身な形ではありましたが人とのつながりを感じて少しずつ周囲と打ち解ける体験をしました。

共通の話題で人との交流を持っていたことも病状が悪化しなかった一因と感じています。

しかし、この時期にある程度回復したことで、私は「不調からは完全に脱した。吐いて走れなかった自分から生まれ変わった。もうあの頃のようにはならないだろう。」と過信もしました。ある程度までなら追い込んでも大丈夫じゃないか、むしろ追い込めないようだったら存在価値もないのではないかと考えて、疲労を溜め込みながら走っていました。

元来の自己評価の低さから、何をやってもダメな自分が出来ることは、人より追い込むことだけだと決めつけていました。

高校時代に勉強で限界を超えて追い込み続けていたことと同じように、陸上競技でも追い込もうとしていました。痛みが強く出て追い込みきれなかったために重症にはなりませんでしたが、ケガなく追い込んでいたら確実にうつ状態が悪化し、死にたいという気持ちが強く出ていたと思います。

ランニングに没頭する一方で、勉強に関してはやはりかろうじて留年を免れる、低空飛行の成績が続いていました。「走り過ぎて頭に酸素が回っていないから勉強出来ないんじゃない?」「高校時代本当に1位だったの?」と言われるほどで、完全に落ちこぼれていました。

そうはいっても、大学5,6年生は、病院実習をしながら卒業後の医師としての進路を決める時期でもありました。

元々精神科医を志していたのではなく、この時期に考えた結果として精神科を志望したのですが、次回はそのあたりのお話しをしていきます。

ケガを機に再びうつ症状が悪化

大学1年生の終わり、3月でした。気候が春めき、競技会シーズン開幕を間近に控えてますます練習量や質を高めて追い込んだ練習をしている途中、右太もも裏に激しい痛みを感じました。

今から考えれば、肉離れを発症しているのでしっかり休んで、治療に行く必要があります。しかし当時は、痛みを感じつつも「せっかくここまで練習出来るようになったのに、今頑張らないわけにいかない。」と考えて練習を続けました。

痛みは落ち着くどころか長引き、やがて右足に力が入らなくなってきました。走るたびに動きが悪くなり、やがて1歩も走れなくなってしまいます。

そんな状態で大学2年生の競技会シーズンを迎えました。冬場はあれほど楽しみにしていた競技会ですが、練習不足と強い吐き気で遅かった1年生の時よりもさらに遅くなっていました。

どうしたら良いのか分からず、でも休むのが怖くて色んな練習方法にチャレンジしました。しかし休まない、治療にも行かないという状況では回復するはずもありません。逆に走れなくなる一方でした。「休むと1年生の時の頑張りが無になる。病院には行かずに治さなきゃ。」という考えにとらわれて冷静な判断が出来なくなっていました。

そうしているうちに、走ると強い吐き気に襲われるという症状が再び強くなってきました。人前で食べようとすると吐きそうになり、倦怠感が強くなり、朝方まで眠れなくなる、そんな状態が段々と強くなりました。

走るのが怖い、苦しい、死にたい、その思いが徐々に強くなり、練習量は極端に減りました。お酒を飲むと、飲んでいる間は楽になったり、飲んだ後に少し眠れたりすることに気付き、お酒を毎日飲むようになりました。飲んでいる間はとても楽なのですが、飲んだ後に気分が落ち込み、ドキドキして不安が強くなったり落ち着かなくなりました。それを解消するためにまたお酒を飲んで、と危険な飲み方をしていました。

勉強する意欲もなく、大学には行ったり行かなかったりでしたが、試験直前に気を取り直して勉強してかろうじて進級は出来ました。

大学生になり、自分の不調が体の病気ではなく精神的な病気ではないかと薄々感じるようになりました。そこで、家から通える距離にある精神科クリニックを一人で受診しました。

しかし、中学1年生の時に病院を受診して、「それくらい乗り越えなきゃ。」と言われたことが依然として強く心に残っていました。

「本当にツラいことを話すと、また同じように言われてしまうのではないか。」と考えた私は、病気の症状についての書籍を読みました。

「気分が落ち込む、食欲がない、眠れない、というのは言っても大丈夫だな。死にたいというのは重症と思われて診察してもらえないかもしれない?じゃあこれは言わないでおこう。」というように、何を言えば良いかを決めて受診しました。

担当した医師は、私の話しに耳を傾けてくれました。しかし、深い話しをしたら説教されるという警戒心が強かった私は、表面的な話ししか出来ませんでした。一通り話しを聞かれた後、「うつ病だろうね。ご飯を食べられてないし、薬を飲んでみると良いよ。」そのように医師に言われて薬の処方が出ました。

薬の内容は忘れてしまいましたが、服用すると吐き気はより強くなり、食事をするどころではありませんでした。常に眠くてだるくて起き上がるのも苦しい。浅い眠りが1日中続く。1週間は服薬をしましたが、そんな状態が中々改善しません。良い変化としては、少し眠れることとお酒を飲まなくなったことがありました。しかし、それ以上服用することが難しく、1週間で勝手に薬の服用をやめてしまいました。やめると副作用は徐々に抜けて体が楽になるのですが、そうすると今度は症状として吐き気が強くなり、食事が摂れず、眠れなくなりました。

副作用が出たならそれを医師に報告し、薬を調整してもらうことが必要ですが、正直に話すことで何か強く言われてしまうのではないかと過度に恐れ、「薬は飲んでいます。眠れるようになったし、食事も食べられるようになりました。」と嘘を言いました。

病院の通院費が負担であったこともあり、数回で通院を中断しました。その後も時々余っていた薬を飲んでみましたが、1回でも飲むと吐き気や倦怠感が一層強くなって、楽になるどころか苦しくなりました。

走れるようになるかもと淡い期待を持っていたけどケガを機にその期待も出来なくなり、勉強についてもかろうじて留年を免れている状態でした。

「やっぱり自分は何をやってもダメな奴だ。」という思いが強く、大学4年生の秋頃までは何をするにも身が入りませんでした。

しかし、走ることに身が入らなかったおかげで、長引いた足のケガは徐々に回復し、右脚が完全にはまっすぐ伸びないものの足に力が入って走れるようになりました。

東京での新生活、再びランニングの道へ

東京大学理科3類に合格するという目標は達成できて、引き続き生きることにしました。

合格したことを周りの人々は「すごい!」と褒めてくれますが、私の心が浮かび上がることはありませんでした。燃え尽きてしまい、何をして良いのか分からない状態でした。

ただ、病状に変化はありました。もう勉強はしないでいいんだ。そう思うと、少しだけ眠れるようになり、少しだけ食べられるようになりました。大学入学前には48㎏まで減っていた体重は徐々に増えて、50㎏を超えていました。大学に入って身長が180㎝を超えたので、まだまだ軽いのですが。

大学に入学して東京での一人暮らしが始まりましたが、授業が始まってからも目標を見失った状態が続きました。

授業にも参加する気になれない。参加しても頭に入ってこない。そんな状態でしたが、頻繁にかかってくる親からの電話には「ちゃんと授業には出ている。周りにも馴染んでうまくやっている。」と嘘をついていました。

まだ走るのが怖い状態はずっと続いていましたが、「もしかしたら走っても吐くまでのことはなくなっているかも。勉強はやる気になれないけど、もしかしたら小学生の時みたい2また走れるかも。」そう根拠のない期待を持って陸上競技部の練習に参加しました。といっても、本格的に陸上競技に取り組む自信はなかったので、医学部生だけが入れる「鉄門陸上部」の練習に顔を出しました。

しかし、初回の練習で早速期待は打ち砕かれました。ウォーミングアップのジョギングを400mのトラック1周しただけで吐きそうになって、ついていけなくなりました。ついていけないペースではないのに、吐き気がこみ上げてまともに走ることが出来ません。

情けないと思いつつ、それを誰にも相談は出来ませんでした。しばらくは先輩方と一緒に練習はせず、一人でゆっくりジョギングをしたり、吐き気が出ない100mくらいの距離を何本も走ったり、ごまかしながら出来る練習をしていました。

それでも徐々に体力は戻り、1年生の冬場にはかなり練習が出来るようになっていました。大会に参加するとやはり強い吐き気に襲われて足がすくんでしまいました。練習とは別人の走りでしたが、それでも途中棄権することなく走り切ることが出来ただけで毎回ホッとしていました。

走れるようになると、少しですが勉強する気力も戻りました。全国1位の面影は全くなく、留年するかどうかギリギリの際どい成績でしたが。

人と話をするのは依然として億劫に感じていたので、対人交流は入学当初から変わらず希薄でした。しかし、全体としては入学当初よりも確実に調子が上向いていることを実感できました。睡眠の質も入学当初より改善していましたし、食事量も普通の人の量に近付いていました。

死にたいという気持ちはずっと心の中にありますが、高校時代のように遺書を書こうと思うことはなく、「死にたいけど、今すぐじゃなくてもいいか。」というくらいでだいぶ薄れていました。

一人暮らしをして両親から遠く離れたことも病状改善に向かう要因の一つでした。頻繁に連絡は来て、時々東京にやっては来るものの、実家に暮らしている時のように威圧的な接し方をすることもなく、両親がショックを受けて吐いて倒れる姿を見ることもなくなっていました。

大学1年生の終わりになると30㎞の大会に自主的に申し込んで走ったり、ランニングへの意欲が増していました。競技会とは違ってお祭りのような面もあるマラソン大会の雰囲気や参加賞が嬉しくて、走ることへの意欲がさらに高まっていました。

「2年生になって競技会が始まれば、初めて陸上競技で良い成績が出るかもしれない。」そんな楽しみも感じられるようになっていました。

しかし、調子が上がってくるからどんどん練習をしよう、と走ることばかり考えていて、体のケアをおろそかにしていました。高校3年間何も運動しておらず、体力が落ちていた私の身体はある時限界を超えてしまいました。

生き延びたけど、見失った目標

吐き気が常にあって食欲がなく、夜も眠れない。常に風邪を引いていて頻繁に熱を出し、お腹も下していて・・・と、心身共にボロボロでした。高校3年生の夏に体重計に乗ってみたら、48kg台になっていました。大学入学時の身長は177cmでしたから、相当痩せていました。高校2年生の初めには52kgくらいあったので、元々痩せていたのがさらに痩せてしまいました。

集中力、注意力は低下しており、勉強をしていても簡単な問題で間違えることが度々ありました。模試ではそうならないように注意はしていたのですが、それでもやはり不注意から大量失点してしまうことがありました。

しかし、多くの模試では全国総合上位の成績を維持していたので、私の不調には周囲の誰も気付いている様子はありませんでした。

「合格でも不合格でも、どっちにしても合格発表の日には楽になれる。」

それは私にとって大きな支えとなりました。不合格だったら自殺しようと思っているのに、死ぬことを支えに生きるというのは変な話しですが、この苦しみには終わりがあると分かっていることは励みになりました。

勉強をしたくない、そう思ったら財布に忍ばせている遺書を取り出して読みました。読んだ後は苦しみが少し減って、また机に向かう力を振り絞ることが出来ました。

年が明けて1月に受けたセンター試験当日も、熱を出してお腹を下していました。

眠れない、食べられない状態も当然続いているため、体調が悪く集中出来ないかと思いきや、「ダメでもどうせ死ねば良いんだから。」とかなり開き直って冷静になっていました。

結果は、社会だけ100点中の89点で後は満点でした。周囲は驚いていましたが、私は何も感情が湧きませんでした。嬉しいとも悲しいとも思わず、ただこの苦しみから逃げる日が待ち遠しい、それだけでした。

センター試験と2次試験の前に高校の卒業式がありましたが、私は出席しませんでした。実は中学の卒業式も出席していませんが、これは単にインフルエンザによるものでした。

高校の卒業式は、「行きたくない。」とだけ言って詳しい理由を両親にも誰にも言いませんでした。2次試験直前ということもあり勉強に専念したいからだと両親は考えていたようですが、本当の理由はそうではありませんでした。

「卒業式に行くと、死にたいという強い気持ちが揺らいでしまいそう。揺らいだら、またこの苦しい状態を生きて我慢しないといけない。合格して生きるか、不合格で死ぬか。それ以外の選択肢は作りたくない。」

これが行かなかった理由です。もちろん、本当のことを言えば周囲は止めるのは明らかです。私はただ、行きたくないとしか言えませんでした。

そうしたところ、高校の担任の先生が私の自宅まで会いに来て下さいました。「何か悩みがあるんちゃうか?」そう問いかける先生に対しても、うつむいたまま何も言えませんでした。

私1人のためにわざわざ自宅まで来させたことがただただ申し訳なく、「こんなダメな奴はもうすぐ消えます。」と心の中で繰り返して頭を下げていました。

迎えた2次試験当日。緊張するどころか、「いよいよだ。もうすぐこの苦しみから逃れられる。」という解放感すらありました。

かといって調子が良くなったわけではなく。相変わらず眠れないし、倦怠感や吐き気も強く、食事が摂れません。集中力も低下し、理科で問題の読み間違いをして大きく失点してしまいました。

しかし、とにかく試験は終わりました。

2次試験には前期試験と後期試験があり、前期試験で落ちた場合には後期試験の受験資格もありました。

私が目標としていた前期試験は80人が合格出来ます。後期試験では10人が合格出来るのですが、理科の生物が試験科目に含まれていました。私は理科で物理と化学の2科目を勉強しており、生物の勉強は全くしていませんでした。ですから、後期試験にも出願はしていたものの、受かる確率はほぼゼロでした。

前期試験で落ちたら、後期試験は受けずに自殺する。そう考えていたので、終わった後はぐったりして、もう何もしたくないとばかり考えていました。2次試験が終わってからは一切勉強をしませんでした。

一応自己採点もしましたが、理科で大きな失点をしたことは分かるものの後はどのような答案を書いたか覚えていない部分も多く、さっぱり分かりませんでした。何となく合格はしていそうな感覚もありました。しかし、考えても分からないので、「どっちでもいいや。」と深くは考えませんでした。

合格したら生きる。不合格だったら自殺する。その考えはぶれないので、後は合格発表を待つだけでした。

2次試験が終わっても変わらず眠れないし、食欲はありません。

そして迎えた合格発表当日。本郷キャンパスの掲示板で自分の受験番号と名前を確認しました。喜びや感動、涙もなく、「あ、あった。」それだけでした。

「合格したから生きなきゃ。」と、財布に忍ばせていた遺書をコンビニのゴミ箱に捨てました。「生きるって決めたんだから生きよう。でも、もう勉強はしたくない。」

医師になって自分の不調の原因を知るために、勉強を頑張り出したはずでした。しかし、いつの間にか私は大学受験が最終ゴールになっていました。そして命を削る思いをして最終ゴールに無事到達したは良いものの、そこから先の人生での目標を完全に見失っていました。

全国1位獲得の反動

過集中と言えるほど勉強に専念し、全国1位というこれ以上ない成績を取ったのですが、そのまま全てが順調に進むほど甘いものではありませんでした。

中学を卒業して陸上競技から離れることで一時的に落ち着いていたかに見えた症状がぶり返してきたのです。眠れない、食べられない、吐きそう、中学時代に苦しんだ症状が再び悪化しました。

高校2年生になったばかりの頃、食事を見ただけで吐き気がして喉を通らなくなりました。そこで無理をして食べると、途端に吐いてしまいます。でも食べないと体がもたないと分かっていたので、学校に着くとまず食事を1口、休み時間にまた1口と少しずつ時間を分けて取るようにしていました。周りから見ると、「朝っぱらから早弁をしている態度の悪い奴」でしたが、なりふり構っていられません。ただ、少しでも食べ過ぎるとたちまち吐いてしまうので、慎重に少量ずつ口に運んでいました。

やがて、強い吐き気のためにバスや電車に乗ることが苦痛になりました。中学、高校と電車通学をしていたのですが、ドアが閉まる瞬間に苦しくなり、たった数分乗っているだけなのにとてつもなく長い時間に感じました。自分の体をつねって耐えていましたが、耐えられずに途中で降りたことが数多くあります。途中で降りて電車に乗れず、そこから歩いて大幅に遅刻して登校したこともあります。

授業中も強い吐き気に襲われていました。授業が始まると自分の体をつねって吐き気を我慢していましたが、耐えられない時にはトイレに行きました。授業中に何度もトイレに行くわけにはいかないので、どのタイミングでトイレに立つかを見極めることに神経を使いました。

睡眠についても、疲れているはずなのに眠気が来ず、明け方まで起きていることが度々ありました。寝なきゃと思って焦りますが、焦れば焦るほど目は冴えます。昼間眠くはなるのですが、昼寝をしようと試みても眠れないまま夜を迎えます。夜になると日中の眠気が消えてなぜか目が冴えて、という日々の繰り返しでした。

常にお腹を下し、常に風邪を引いているというように体調の変化も起きました。

徐々に頭が働かず、集中力が低下していました。

実際に模擬試験で信じられないような初歩的なミスをしたこともありました。調子が悪いことを悟られたくないために、「真面目にやらずにちょっとふざけてみたんだ。」と周りには強がっていましたが、自分でも明らかな不調を自覚していました。

これだけ調子が悪いと感じていながら、私は誰にも相談することはありませんでした。両親に相談してもまた怒鳴られたり、逆に両親の方が倒れてしまうだろうと思っていました。

中学時代に病院を受診した時に、「それくらい自分で乗り越えないと」と言われたことが私の頭には強く残っていて、病院に行くことも考えられませんでした。

友人には恥ずかしくて相談出来ず黙っていました。何事もなく冷静で、時々悪ふざけをする。そんな姿を演じていました。そのためか、友人からは「お前はのんきでいいなあ。」と言われたこともあります。

「皆それぞれ悩みはあるんだろう。自分の悩みなんかは大したことないんだろうな。」と思い、自分のつらさはしまっていました。

しかし、一方でこのままの生活は続かない、このままでは確実に死んでしまうことは自分でも分かりました。苦しい、出来れば今すぐにでも死んでこの苦しみから逃れたい。そう考えて、中学時代と同じように市販の薬を多く飲んでみましたが、死ねませんでした。死ねなくてがっかりすると共に、確実に実行出来る方法を考えないとダメだなと理解しました。

かといって、どうしたら良いのかすぐに考えが浮かぶわけでもありません。死ぬことを望む一方で、死ぬことへの恐怖心もありました。

「大学受験が終わるまでは勉強を続けて東大理3合格を目指そう。もし落ちたら、そのまま死のう。」

それが私の答えでした。

「全国1位になっても受験で失敗した奴。陸上でダメなのに勉強でもダメな奴。そんな価値のない人間が生きていても許されるはずがない。どうせ死にそうなくらい弱っているのだから、思い切って実行しよう。」そう固く決意しました。

高校2年生の終わりに、東大を目指す友人数名と共に1泊して上京して東大を見学に行きました。2日目は各自自分の行きたいところに行ってそのまま解散だったのですが、私は合格発表が行われる東京大学本郷キャンパスの周囲を歩き、自殺実行場所と方法を決めました。頭の中で何度もシミュレーションをして、どのタイミングなら確実かを考えました。

自殺が成功したら、身近な人たちはどんな反応をするだろう。そういった人たちの顔を思い浮かべると、悲しくなって涙が出ました。

しかし、この苦しみをずっと我慢出来る自信はありませんでした。葛藤はありましたが、やはり受験で失敗した私が生きていることは許されないという結論に達しました。

「このやり方なら絶対に失敗しないで確実に死ねる。」

「合格出来たら、もう勉強はしないから今の苦しみから離れられる。不合格でも死ねば良いから、どちらにしても今の苦しみから離れられる。」

そう思うと、不思議と心が軽くなりました。

1人で自宅に帰って、遺書を書きました。両親に向けて、兄に向けて、同級生に向けて。書いていてももう涙は出ませんでした。